コラム KAZU'S VIEW
2025年06月
50年前の大学生時代に思いを馳せて感じること-自分の未来に恋してみる-
今月は長嶋茂雄氏の訃報,令和の米騒動,アメリカのイラン核施設爆撃(ミッドナイト・ハンマー作戦)などなど多くの出来事の情報が入ってきたが,自身の関心事は大学時代の思い出に関わる事項が続いたことが最も印象深いものであった.1つは出身学科の創立90周年記念出版への寄稿依頼があったこと.そして,昨年逝去した2人の先輩[1]を偲ぶ会の開催であった.大学への入学は今から50年以上前のことになる.50年という年月を記憶をたよりに文字にして書き出し,これを読み返すことで,欠けていた記憶のピースを手持ちの記憶やネット情報という外部記憶を借りて,復元・創作するという作業を繰返した.また,50年前に時と空間を共有した先輩や同期生の顔を見て,会話を交わし,その修復と創造作業を補強した.今回のコラムは,そんな作業を通じて,50年前の自分に声かけし,これからの自分へエールを送ってみた.
大学へ入学は昭和46(1971)年に遡る.学園紛争(注1)末期の頃であった.高校の時に学園紛争への関心は,昭和44年の東大入試中止の影響程度であった.大学入学後にキャンパスへの機動隊導入と火炎瓶の燃える匂いが立ちこめる状況に立ち会った時は,その現実を体感した.授業を中止し,「大学民主化」をテーマにした討論会や教員を半ば強制的に出席させた団交(注2)の場などを通じて,高校時代にイメージした「学びの庭」とは程遠い景色を経験できた時代だった.このような喧噪としたキャンパスに静寂が訪れ,授業が再開されると様々な出会いがあった.まずは,学生サークル活動との出会いであった.高校までにもサークル活動を通じた人間関係構築の経験はあったが,大学でのものはその強さと深さに大きな違いがあった.この大学での出会いは,その後の人生における仕事と人間関係の礎となった.学部・大学院・大学教員というキャリア・パスは一貫して管理技術に関するものであった.また,この出会いは,サークル間から大学間へ,また,技術系から文化系(経営学)の学生間へのネットワークとして拡大していった.このネットワークは,やがて国内では,学会や産官学に,国外ではアジア・太平洋から国際学会のネットワークとして広げることができた.その原動力の原点を辿ると,大学入学当初の学生研究サークルにたどり着く.「知らないこと」を知る楽しさ,知識を使って行動し,その結果を検証する楽しさを知り得た時代だった.
大学入学後のもう1つの出会いの場は,昼夜ダブル・スクールの体験であった.そのきっかけは.昼間部の1年次で受けた授業の担当教員が,夜間部の管理職を兼務しており,授業の際に夜間部の存在を教えてくれたことであった.この夜間部の主な対象学生は社会人で,昼間は仕事をして夜,学ぶというライフスタイルの方々だった.教員および教育施設は昼間部と共通であった.また,昼間部学生が夜間部を受講する際には,授業料免除のメリットもあった.昼間部のカリキュラムでは,管理技術の周辺技術(固有技術)として情報,機械,電気,化学の領域の科目を履修できたが,建設系(土木・建築)は履修が制約されていたので,夜間部では2年制の建築コースを選択した.昼間部の2年次に入学し,3年間かけて昼間部の卒業と同時に修了した.昼間部の3年次は,学生サークルの幹事長と専門科目の実験・実習科目3科目(必修1,選択2科目)に集中するために夜間部は休学した.夜間部での出会いでは,働きながら学ぶ人達から「学ぶ姿勢」と「学び方」を教えてもらった.このことは,その後,人材育成プログラムの開発・運営をテーマとした研究・教育活動の「仕事が教科書,現場が教室」というコンセプトの基礎となった.さらに,大学院に進学した際に,修士論文と博士論文でプレファブ住宅生産をテーマとすることになり,物作り技術としての固有技術である建築と価値作りの技術としての管理技術との融合に取り組むことになったことに不思議な因縁を感じている.また,この時の出会いの中には,初めての海外旅行の機会(注3)があり,これを通じて海外文化を肌で感じることを経験し,その後の国際会議での楽しみ方が国際会議出席の大きな動機付けの1つになった.
大学入学以降の50年を振り返ることで,意外に50年前の記憶が明確になった気がする.その要因は,断片的な記憶を繋ぎ合わせること,このコラムでここ数年,振返りをテーマにしたものが多くあったこと,そしてインターネットの情報の効果が大きいような気がする.紡ぎ出した記憶を眺めていると,50年以上前の小学校に入るまでは「内弁慶」と呼ばれ,中学から親元を離れて下宿生活をして来た経験が,その後の50年間に引き継がれた部分と変わった部分とがある様な気がする.ここ50年間の自身の変化を人的ネットワークの数で見ると,大幅増加であり,人生の最大の資産になっていることが確認できた.その増加の源泉は「楽しみ」にあったようだ.この傾向は退職後の現在も続いている.地縁組織の会長をここ5年ほど続けているが,近隣の老若男女に日々接するようになり,新たなネットワークでの出会いが日々生まれ続けている.そして最近は,人生を「生老病死」として認識し,これを「楽しむ」という心境になりつつあるが,ふと,人付き合いに対する抵抗感を感じる自分を見出すこともある.この「楽しみ」が今後どのように変化するのか,または,継続するのかを新たな「楽しみ」として加えてみたい.「自分の未来に恋する」ように.
(注1) 昭和43(1968)年頃,東大闘争,全学共闘会議(全共闘)と呼ばれる学生運動形態が現れた.全共闘は,それまでの全学連のような特定の政治党派の影響が強い既存の学生自治会に拠る運動とは異なり,党派や学部を越えたものとして組織作られ,党派に属さない学生が数多く運動に参加した.彼らは武装を辞さず,大学をバリケード封鎖することによって主張の貫徹を試みた.東京大学で始まった全共闘運動は昭和44(1969)年には全国に広がり,全国127の国公立および私立大学で何らかの闘争状態・紛争状態となった.1968-69年の全国的に学生運動が発生した時期は,学園紛争期と呼ばれる[2],[3].この中で, 1969年の東大入試は中止された.
(注2) 1960年代から70年代はじめの学生運動がたけなわだった時代,学生側が大学側と学内問題から社会問題に至るさまざまな問題について交渉した「大衆団交」の略語として「団交」という用語が使われたことがあった[4].
(注3)この夜間コースで出会った教員の中に日本建築学会会長で,ル・コルビジェ(Le Corbusier(注4))の弟子に当たる方がおられた.この方が,コルビジェが都市計画をしたシャンデイガール(Chandigarh:インドパンジャーブ州ならびにハリヤーナー州の両方の州都)を中心とした見学ツアーを企画・募集した機会に,参加することができた.これが初めての海外旅行となった.この旅行で, アグラ(Agra)のタージ・マハル(Taj Mahal:(注5)),ジャイプル(Jaipur)の風の宮殿(ハワー・マハル:Hawa Mahal,(注6))などのインド建築と文化に直接触れることができた.ツアーには大学訪問が何カ所かあり,インド文化についてインドの大学生との交流を通じて感じるところがあった.特に,町中に漂う独特の匂いとカースト制を背景とした身分制度の存在には,かなり刺激を受けた.シャンデイガールのコンクリート打ちっ放しの機能的で無機質な建築に対し, タージ・マハルや風の宮殿の見るからに人手のかかっていそうな装飾性豊かな石造建築との対比性が印象的であった.特にタージ・マハルについては,シャー・ジャハーンが晩年に息子にヤムナー川を挟んだ対岸に幽閉された際に, 亡きムムターズ・マハル妃を偲び,視力の衰えた目でタージ・マハルを見るために鏡を埋め込んだという,壁の1円玉サイズの穴の説明が心温まる記憶として残っている.
(注4) コルビジェ(1887-1965年)はスイスで生まれ,フランスで主に活躍した建築家で画家でもある. 機能的,合理的な造形理念に基づくモダニズム建築の巨匠と呼ばれることがある.彼が設計した東京上野の国立西洋美術館やシャンデイガールなど,7カ国17件の作品は,2016年に世界遺産に認定されている[5].
(注5) 17世紀の前半,ムガル帝国第5代のシャー・ジャハーン(在位1628-58年)が,妃のムムターズ・マハルの墓廟として建築した.白大理石を用い,ドームを中心に,4本のミナレット(宗教施設に付随する塔)が配置され,周囲には清冽な池が設けられている.この建物は,世界で最も美しい建造物ともいわれ,1983年,世界遺産に登録されている.インド・イスラーム文化を代表する建築である[6].タージ・マハルの建造は,その巨額の出費により,その後のムガル帝国衰退の1因とされている.
(注6) ハワー・マハルの別名が「風の宮殿」.インド・ラージャスターン州の州都ジャイプル(別名ピンク・シティ)の一角にある宮殿史蹟.隣接する世界文化遺産である天文台史蹟のジャンタル・マンタル(Jantar Mantar)とともに,ジャイプル市内での観光地となっている. プラタープ・シング (アンベール王: 在位1778-1803年)により1799年に建てられ,ピンク色をした砂岩を外壁に用いた5階建ての建造物で,953の小窓が通りに面している. この小窓を通して風(ハワー)が循環することにより,暑いときでも涼しい状態に保たれるような構造となっており,これがこの宮殿の名前の由来ともなっている[7]. ジャンタル・マンタルにある巨大な日時計は圧巻である.
参考文献・資料
[1] 石井和克,喜怒哀楽を通じた自己変革の確認法-構成主義的情動理論の適用の試み-,コラム KAZU'S VIEW 2024年02月, https://ishii-kazu.com/column.cgi?id=248 ,2025.6.26アクセス
[2]フリー百科事典(ウィキペディア(Wikipedia)),日本の学生運動, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%AD%A6%E7%94%9F%E9%81%8B%E5%8B%95#%E6%AD%B4%E5%8F%B2 ,2025.6.26アクセス
[3] 東京外国語大学, 学園紛争〜東京外国語大学における経過と特徴〜,東京外国語大学文書館, https://www.tufs.ac.jp/common/archives/ex_gakuenfunsou1.html ,2025.6.26アクセス
[4] フリー百科事典(ウィキペディア(Wikipedia)),団交, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E4%BA%A4 ,2025.6.26アクセス
[5] フリー百科事典(ウィキペディア(Wikipedia)),ル・コルビュジエ, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%93%E3%83%A5%E3%82%B8%E3%82%A8 ,2025.6.26アクセス
[6] 教材工房, タージ・マハル世界史用語解説 授業と学習のヒント,世界史用語解説 授業と学習のヒント, https://www.y-history.net/appendix/wh0804-019.html ,2025.6.26アクセス
[7] フリー百科事典(ウィキペディア(Wikipedia)),ハワー・マハル, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%AB ,2025.6.27アクセス
令和7年6月
以上