コラム KAZU'S VIEW

2018年06月

これからの学びについて―教えたいと教えて欲しいを融合する場―

ある会社での講演を頼まれて,構想を練っていた.たまたま手にした「学びとは何か」[1]を読みふけった.
人はなぜ学ぶか?と言う問いに対し,私の現在時点での答えは,「より良く生きるため.」その良さとは何か,幸福な生活か,豊かな生活か?悔いの無い生活か・・・・.果てしない問いの連続である.今井氏は学ぶプロセス(学ぶという行動・行為)そのものに価値を見出している.マネジメントの世界にはプロセスマネジメント(過程の評価と管理)とパフォーマンスマネジメント(結果の評価と管理)の2面の重要性を指摘している.この視点は学習という活動からすると,「何のために学ぶのか?」と「どのように学ぶのか?」の2つの問いになる.大学という場に身を置く人間としては,一方で研究,他方で教育という2面性の業務を担う.かつての大学では前者,すなわち,研究が主で,後者の教育は付属的であった.しかし,大学進学率が50%を超えると,大学の社会的使命における教育面の比重は研究面より高くなる傾向にある.ここに日本の高等教育の現場における混乱がある.
ところで学ぶ(学習)と勉強の違いは何か?勉強と言うと何やら気が重くなるイメージが強い.「勉強ができる.」は褒め言葉であると共に嘲笑の意味もあるように思う(大人に向けて言うとき).雪村[2]によれば,学習(学ぶ)とは本人を取り巻く物事から学び,行動が変わること.一方,勉強とは学問に力を注ぐ行為のこと,としている.つまり,勉強は強く勉める,と言うことになる.「勉める」を辞典で引くと,「困難に耐えて努力する.」「無理をしてでも励むこと.」「努めると同義」などが出てくる.この意味はかなり重いイメージを引きずる.
 今井[1]によると,母国語に関する子どもの学びに学びの本質があるとしている.言葉を話し,理解すると言う能力は生きていく上で重要な能力である.そのためには,音韻,文法そして語彙(ゴイ)を理解し,組み立てる能力が必要となる.しかし,生まれてから勉強もせずに彼らは母国語を獲得し,自由に操ってしまう.この能力は,その後,外国語を学ぶ際に大きな障害になるという.そのプロセスは,体験を通じた独学による試行錯誤と思い込みに基づく創造であるとしている(この表現は今井の表現を著者が個人的に変換している).親から発音法や文法の講義を受ける訳でもなく,辞書の引き方を訓練させる訳でもない.この体験がその後,外国語を学習する際にネックになると今井は指摘する.自分の中学,高校時代の英語学習体験からすると,文法の知識を講義として受け,発音法や辞書の引き方,語形の変化(過去,現在,未来形など)を知識として取り込み,暗記で記憶化し,試験でその成果を確認する.しかし,英語でものを考えることはしなかった.その後,予備校の英語の講義でLady Chatterley's Lover(David Herbert Richards Lawrence, 1928/日本語訳は伊藤整訳チャタレー夫人の恋人,1950)という教材を使ったものに出会い,その描写の刺激を思春期で経験し,英語のイメージが大きく変化したことを思い出す.大学に入り,第二外国語でドイツ語を取ったものの身に着かなかった.学部を卒業し,大学院で論文を書き始め,やがて国際会議に出るようになり,学生の頃,神様のように思っていた国際的著名教授に会い,議論をする内に酒に酔いながら英語で話している自分に驚くことが何回もあった.今井によると,日本人の赤ん坊でも,生後8ヶ月位までは,rとlの音を聞き分けられると指摘している.その後,日本語習得のための効率的学習の視点から日本語の音のみを聞き分けるようになり,rとlの音を聞き分けられなくなってしまうという.これは幸せが不幸せか,どのように解釈したら良いのであろうか.還暦を過ぎ,やがて10年を迎える身に取って,第二の人生を学び直すこの機会を振りかえると,未だに第一の人生を引きずっている自分にがっかりもする.白内障で目も見えにくくなり,老人性難聴で聞こえにくくなって来ると,見なくても良いもの,聞かなくて良いものがあることに感謝する一方で,少々,さみしさも感じる.
 できれば,これからの人生は知りたいことを知り,学びたいことを学ぶという時間を楽しむ学びの場創りを工夫したい.

参考文献・資料
[1] 今井むつみ,学びとは何-(探求人)になるために-(岩波新書),岩波書店,2016年
[2] 雪村活人研究所, 「学習」と「勉強」の意味と違い(意味哲学),
http://yukimura-manase.hatenablog.com/entry/2016/07/02/162946<2018.6.3>
以上
平成30年6月

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