コラム KAZU'S VIEW

2019年09月

「1つのウソが息子たちを戦場に」を見て考えた国家と個人との情報の非対称性

「赤紙(アカガミ)」という物を対象に太平洋戦争となは何か?を考えさせられたTV番組だった.見終わってなにやら腹立たしさが残った.その腹立たしさは何に向けたものなのか?自分自身とエリートと言われる選ばれた一部の人間集団に向けられたような気がした.高齢化に伴い,男性ホルモンが減少し,高齢性鬱症状から来た認識のような感じ方なのかも知れない.

赤紙とは, 帝国陸海軍の召集令状(ショウシュウレイジョウ)のことである.その令状はその色から赤紙などと呼ばれた.陸軍省による召集の大半は赤色が使われた.当初は真っ赤だったが,戦時の物資不足により染料を減らしたため次第に赤味が薄くなり,実際に太平洋戦争で多くの人が目にしたのはピンクになったようだ.一方,海軍省による召集でも似た系統の色が使われたため,陸海両軍の令状を赤紙とするのが一般的な理解である.召集令状とは,軍隊が在郷の予備役を召集するために個人宛に発布する令状である.令状とは, 命令の意を記した書状であり,現在では命令を発するのは裁判所や裁判官であるが,召集令状は大日本帝国陸海軍が発したものである.その赤紙の配達人をしていた西邑仁平(ニシムラ ニヘイ)氏(滋賀県大郷村(現在の長浜市))の残した赤紙に関する資料と息子さんや当時の関係者のインタビューで番組は構成されていた.赤紙配達人の目から見た出征者やその家族の様子は国家権力の理不尽さと,その理不尽さを理解しながらも,これに抗(アガラ)えない社会(個人の集合であり,国家とは一線を画すもの)へのもどかしさを今の自分に当てはめて複雑な気持ちを覚えた.国家とは何か?国家と個人との関係は?を改めて自らに問うてみる.

日本帝国軍やヒットラーが使った情報戦略はマスメデイアという情報媒体で,その主体はラジオであった.1936年のベルリンオリンピック(第11回夏季大会)は,ヒットラーがオリンピックを政治的に利用した典型であり,プロパガンダと呼ばれる政治手法がその威力を発揮した時でもある.この手法は最近ではインターネットを基盤とする情報ネットワークを利用したFake news(虚偽報道:キョギホウドウ)等と呼ばれるモノに進化(?)してきている.このオリンピックでは初めての聖火リレーやTV試験放送が行われた.一方,日本人からはこのオリンピックは特別な意味を持つ.すなわち,次の第12回夏季オリンピックが1923年9月1日発生した関東大震災から見事に復興した東京を会場として,アジアで初めて開催される事が決まっていた大会であったこと.マラソン競技で日本に初めての金メダルが孫 基禎(ソン ギジョン)選手によってもたらされたこと.そして,「前畑がんばれ!」のラジオ放送で日本中が沸き立った200m平泳ぎでの地元ドイツのMartha Genenger(マルタ ゲネンゲル)選手との死闘と, 前畑秀子(マエハタ ヒデコ)選手が女性として日本五輪史上初めて金メダルを獲得したことであろう.しかし,この東京オリンピックは日中戦争(1937〜1945[1])や軍部の圧力等のため日本政府が開催権を返上し,さらに東京の代替地であったヘルシンキでも第二次世界大戦によって開催されることはなかった.その結果,第12,13回オリンピック大会はいずれも開催されることはなかった.その後,1964年にアジアで最初の第18回オリンピック大会が東京で開催された.この大会は,日本が戦後復興を世界にアピールする機会となった.

情報化社会といった言葉が現れたのは1960年代[2]からで,それから60年がたとうとしている.この間に,情報技術は我々の個人生活レベルまで深く浸透してきている.先日,ある携帯電話会社の通信ネットワークに障害がおき,社会的パニック状況が発生した.また,自然災害の復旧対策の主要なものとして,携帯電話の電源確保が上がっている.今や情報機器無くして我々の生活や仕事は成り立たない所まで来ている.誰もが何時でも,世界中の何処の,誰とでも情報交換が容易に出来る時代になった一方で,情報技術を使った社会操作や戦争(サーバーテロ)が現実味を帯びてきている.情報技術発展の光と影の部分と言えよう.スポーツの世界にもeスポーツと言われる競技が登場し,オリンピック種目候補に上ったこともある.この情報技術を使うことで,我々の生活は時間と空間の制約を超えた拡がりを持つことになる.この時,個人と国家の関係が今までに無い関係性を形成する可能性が出てくる.つまり,情報化社会では,それ以前の社会のように「情報の独占」が困難となる.かつて,日本帝国軍が大本営発表として行った,虚偽の戦果報道により国民感情を操り,多くの犠牲を出した歴史は,国民への情報開示を当時のエリート達が操作することで生じた帰結であろう.しかし,情報化社会では,情報を持つ者と持たざる者の差は,それほど無い社会である.このような情報の非対称性[3]が解消された社会では,周りに溢れる膨大な情報(Big Data)を手に入れることができても,その情報の価値判断や活用法は個人にゆだねられることになる.情報の中のウソを見抜き,自らの価値創造に情報を変換できる創造性が求められる.このような素養を持つ人たちの社会が,知識社会[4]と言われるのであろう.7月,8月のコラムで1930〜40年代の日本の歴史,また,それを取り巻く東アジアの動きに触れたが,世界中がナショナリズムの嵐の中,軍事力を競う戦争とスポーツで人間力を競うオリンピックとでその競争の持つ意味を考えながら「いだてん-東京オリムピック噺-」を見ると,単なる東京2020のプロモーション番組とは違う,今の日本のおかれている状況を理解し,考えるための側面が見えてくるのではないか.

参考文献・資料
[1] 庄司潤一郎,日本における戦争呼称に関する問題の一考察,防衛研究所紀要,第13巻,第3号, pp.43-80(2011),
https://www.nids.mod.go.jp/publication/kiyo/pdf/bulletin_j13-3_3.pdf ,2019,9.19.アクセス
[2] 佐藤俊樹, 社会は情報化の夢を見る: [新世紀版]ノイマンの夢・近代の欲望,河出文庫, 河出書房新社(2010)
[3] Arrow, K.J., Uncertainty and the welfare economics of medical care. The American Economic Review 58,941-973(1963)
[4] P.F.ドラッカー著,上田惇生訳,断絶の時代,ダイヤモンド社(2015)

以上
令和1年9月

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