コラム KAZU'S VIEW

2020年05月

巣ごもりの意味を考える“From a social distance to a sympathy with humans”

五月晴れが暫く続き,青空が心地よく感じる日が続いたが,天気予報で沖縄地方が梅雨入りしたというニュースを耳にした.「自粛」,「ポストコロナ」,「・・・」などなど耳障りな言葉が飛び交っている日々の中で,外出自粛の連休の暇な時間つぶしに庭の木の枝の剪定(センテイ)をしていた.その時,不意に山鳩らしき茶色っぽい,まだら模様の鳥が周りを飛び回っているのに気づき,周りを見渡すと剪定している庭木の枝股に山鳩の巣があった.よく見ると,そこには2羽の雛がじっとした状態で目に入って来た.その瞬間,何やら悪いことをしでかした気がした.多分,親鳩が生まれたばかりの子を守るための威嚇(イカク)の行動ではなかったか.その後,機会ある毎に鳥の巣の様子を眺めては,雛の行く末を考えてみていた.しかし,一週間ほどして,2羽の雛の姿が巣から消えてしまい,親鳥も見かけなくなった.楽しみが奪われた気がして,寂しさを感じた.
  このところのニュースでよく耳にするのは,「巣ごもり需要」,「巣ごもり卵」,「巣ごもり・・・」などなどである.この「巣籠(ごも)り」を辞書で引いてみると「鳥などが巣にこもること」(大辞林),「休日に外出を控え,自宅で過ごすこと.」(大辞泉),「すごもること.特に春に生まれた雛鳥などが巣に入っていること」(「巣籠る」で「鳥が巣にこもる.家にとじこもる.」)(広辞苑)のようになっている.個人,家を中心に内,外という方向性で言うと,内向きの言葉である.家や個人の内側に何があるのか?自己,自我(エゴ:ego),あるいは「無(無我)」に向かい合うという場(時間と空間)を「巣ごもり」は意味する言葉なのか.自分自身に向かい合う時,「心にはもう一人の他人がいる」,「心は私のものではない(無我)」[1]というような言葉もヨーガ(yoga)や仏教の分野から聞くことがある.ヨーガは,古代インド発祥の伝統的な宗教的行法で,心身を鍛錬によって制御し,精神を統一して古代インドの人生究極の目標である輪廻(リンネ)からの解脱(ゲダツ)に至ろうとするものとされる.この考えは,この世で生(セイ)あるモノは,死後,生前の行い(カルマ: karman)によって次の多様な生存となって生まれ変わるというものであり,限りなく生と死を繰り返す輪廻の生存を「苦」と捉え,二度と再生を繰り返すことのない解脱を最高の理想としている[2].これらの「無我」,「苦」に「無常」を加えて仏教の根本思想とされる「三相(サンソウ)」が構成される.
たまたま目にしたTV番組で,日本人のお坊さんが流ちょうな英語で座禅の説明をしているシーンが目に留まった.そのインタビューの会話の中で「座禅の目的は実験と観測である.」というようなメッセージが気にかかった.実験と観測の思想は,18,19世紀のヨーロッパで生まれた唯物論的科学の基礎をなしている.そのアプローチを心,心理の世界に用いることの着想に共感が持てた.その禅僧に関心を持って調べたところ,その禅僧は藤田一照(フジタ イッショウ)[3,4]という方で,33歳で渡米し,以来17年半にわたってマサチューセッツ州ヴァレー禅堂で坐禅を指導した後,2010年より曹洞宗国際センター所長を務め,アメリカ企業でも坐禅を指導している. 禅の瞑想(Meditation)は自分を見つめ直すための技法の1つとされる.マインドフルネス(mindfulness)と呼ばれる医療行為としても認知されるようになってきた.これは1979年にジョン・カバット・ジン(Jon Kabat-Zinn,)[5]が,心理学をベースに慢性的痛みやストレスを持つ患者に対して注意集中力を高める臨床的なプログラムとして提唱した動きが発端になったとされる. 彼はマサチューセッツ大学マインドフルネスセンターの創設所長であり,分子生物学の学位を持つ.また, 1月のコラム「庚子の初夢は不確実性への対処法の一考察」で紹介した,「幸福学」の提唱者である前野慶応大教授[6]が脳科学の視点で,自我の意識は多くの無意識の小人(コビト)の仕業を結果的に理由づけたものが意識(自我)と脳が錯覚したものであるという自我(私)の「受動的意識仮説」の指摘にも共通している.現在および現在までの経験や環境から作り出されたものが現在の自分,つまり,自我と錯覚しまっていることから自分を解き放つことで無我に近づく.その結果,自分は何ものでもなく,また,何ものでもあるという環境への一体感が得られる.座禅という行為は,そのような自我の認識法と解釈できないか.
小鳩がいなくなった原因は,近所の人や家族の話を総合して推測すると,カラスに持ち去られたという結論になった.自然界の巣ごもりの1事例を,自らの巣ごもり生活の中で経験できた.庭の植木の枝落としが1つのきっかけとなり,鳥の巣ごもりの1結末を観察した上で,今回のコロナ騒動を振り返る.鳥から派生したウイルスが人から人に感染拡大し,その結果,これまでの生活様式を根本的に見直す事態に至っている.感染力の強いコロナウイルスとの共存を前提する生活様式の再設計の図面はまだ見えていない.密集,密閉,密接の3密はこれまでの生活様式では,人が人として生きて行く上の価値であった.より便利なところに人は集まり,村を作り閉鎖的でより深い関係性を長い時間をかけて大切にしてきた事で信頼形成ができあがった.これは,人がより便利な社会環境を求め続けた1つの結果でもあった.これが,今回のコロナ禍で安心,安全を損なう元凶となった.多分,信頼形成は人間が生きていく上で必須のものであろう.これを新たに作り出すための生活規範はデジタルトとは違う心の共感(sympathy)の距離形成になるのではないか.その前提は「一身独立し」の自己確立になるような気がする.ここ数百年の民主主義の時代は,個人の自由を確立することが人間性のテーマであった.個人の自由とは何か.無我を巣ごもりの機会で考え,行動することが,ウイルスと共生する生活様式創りのヒントにならないか.

参考資料・文献
[1] 上祐史浩,第421回『心は自分の中の他人が作る!仏教の無我と認知心理学』,http://www.joyu.jp/movie/262019/1532421201998_66min.html,<2020.5.21>
[2] 森本達雄,ヒンドゥー教―インドの聖と俗,中央公論新社(2003)
[3] 藤田一照, 藤田一照(offficial),https://twitter.com/issyofujita?lang=ja,
<2020.05.18>
[4] 藤田一照,現代坐禅講義 只管打坐への道,KADOKAWA (2019)
[5] ジョン・カバット・ジン著,春木豊訳,マインドフルネスストレス低減法,北大路書房(2007)
[6] 前野隆司,脳はなぜ「心」を作ったのか-「私」の謎を解く受動意識仮説-,筑摩書房(2010)
以上
令和2年5月

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