コラム KAZU'S VIEW

2021年01月

“麒麟がくる”の時代背景を世界史の中で見て日本の現状を考える

  NHK大河ドラマ「麒麟がくる」は,明智光秀(~1582年:注1)を主人公に戦国の時代を終わらせようとする様々な人物の人間模様を描いている.その中で,鉄砲が1つのキーワードになっている.ドラマでは,光秀は鉄砲の名手とされ,鉄砲によって戦国時代の戦い方を変えたとされる織田信長(1532~82年)に鉄砲を紹介する場面も登場する.本能寺で信長を討ち,信長の後を継ぐ,豊臣秀吉(1537~98年)との山崎合戦(1582年)でも,鉄砲では優位であったにもかかわらず,決戦当日の天候が雨であったため,火縄が使用できなかったことが光秀敗因の1つと指摘されている.この鉄砲は,1543年にポルトガル船が種子島に漂着したことを契機に,日本国内に流通していく.その過程で,日本独自の改善が施され,武器としての性能向上と共に大量生産化が進められて行く(注2).このような背景の中で,信長,秀吉そして徳川家康(1543~1616年)へと日本国内での統一速度が加速して行く.その意味で,鉄砲は日本を大きく変えたと言えるであろう.その変化は日本国外からもたらされた.そして,300年後に再び,黒船(1853年)によって国外からの変革要因が現れ,さらに,その100年後に敗戦(1945年)という形の外的要因が日本にもたらされる.これらの国外要因は,いずれもそれまでの対馬海峡,黄海,東シナ海ではなく,太平洋側からのアプローチによるものである.すなわち,ヨーロッパの人々によって日本人の世界観は,唐・天竺・南蛮(注3)という枠組みからヨーロッパ,アメリカそしてアジアという世界観へと大きく変化させられた.

 信長から家康の時代,1530~1620年の約百年間の諸外国における著名なリーダーを上げてみよう.ヨーロッパではスペイン国王フェリペ2世(慎重王:Felipe II,1527~98年,注4),フェリペ3世(敬虔王:1578~1621年),中国(明朝:1368~1644年)では第12代嘉靖帝(1521~66年),第13代隆慶帝(1566~72年),第14代万暦帝(1572~1620年) がほぼ重なる時代である.この時代は世界史では大航海時代(増田[2]によれば1415~1648年,注5)になろう.この時代はスペイン,ポルトガルによるアフリカ,アメリカそしてアジアへの侵略と植民地化の時代になる.その象徴的人物が,上記スペイン国王フェリペ2世である.この大航海時代には,スペインが西回りでアメリカを経由し,南アメリカ南端のマゼラン海峡を通って大西洋から太平洋に出る航路を1521年に開拓した.この航路開発は, スペインに雇われたポルトガル人のマゼランによるものであった.一方,ポルトガルは,1498年にアフリカ南端の喜望峰経由でインドへの航路開拓をヴァスコ・ダ・ガマにが行い,1511年マラッカ(マレー半島)に進出し,1557年には,マカオについて明国政府から居留許可を得ていた.この2国による世界制覇の動きは,1494年,スペインとポルトガル間で取り交わされたトルデシリャス条約によるデマルカシオン(世界領土分割)体制やその後,1529年に締結されたサラゴサ条約(東経144度30分で世界領土分割)といったグローバルな秩序付けによって形成されていた.その中で1543年,ポルトガル船が種子島に漂着し,鉄砲を伝え,1549年フランシスコ・ザビエルが鹿児島に入国し,キリスト教布教を始めた.その後の日本国内における宣教師による布教活動の結果,1582年頃に15万人程度であったキリスト教信者の数は,17世紀には70万人を超える数字になった[1].95箇条の論提に始まるとされるルターを代表とする宗教改革(1517~60年)は日本人にしてみると,遠いヨーロッパで起き西洋史(世界史)の1イベントに過ぎない.しかし,このキリスト教内の内紛はその後,プロテスタント(新教徒)を生み出し,やがて,スペイン・ポルトガル(旧教徒国)とイギリス・オランダ・フランス(新教徒国)の覇権争い(注6)の渦中に日本を含むアジア地域を巻き込んで行った.しかし,一方で,この時代には日本からのヨーロッパ派遣プロジェクトもあった.すなわち,天正遣欧少年使節(1582~90年)や慶長遣欧使節団(1613~20年,注7)である.また,1590年に国内統一を果たした秀吉は,文禄の役(1592−93年)と慶長の役(1597−98年)の2回に渡り,延べ30万人の出兵を朝鮮(第14代万暦帝の時代)に対して行っている.この出兵は,ヨーロッパ勢力に対し,強力な日本の軍事力を示す機会となった.また,秀吉からスペイン国王フェリペ2世への威圧的メッセージも出されている[3].秀吉とフェリペ2世の没年が同じ年であったことには何かしらの因縁を感じる.

 日本の戦国時代の終焉が,大航海時代というグローバルな動きに重なり,鉄砲という新たな物的価値が大きく作用したと同時に,キリスト教という新たな心的価値の作用も見逃せない.キリスト教徒としてのキリシタン大名は,信長や秀吉の戦力として大きな力を発揮している[3].しかし,この新たな心的価値は秀吉やこれに続く家康の国家統治の障害となることも当然考慮の対象になる.宣教師達の当時の書簡には,キリシタン大名の力を利用して日本支配を画策する動きもあったとされる[3].それらのリスクを考慮しながらも,国際貿易による経済的価値創出の魅力も国家運営上は必要性が高い.歴史的には,秀吉が1587年に出したバテレン(宣教師)追放令や1596年の禁教令,1612年に第2代将軍徳川秀忠の出した禁教令(教会の破壊と布教の禁止)の中でも,貿易が行われていた[3].これがやがて1639年ポルトガル船来航禁止によって1854年まで鎖国状況に繋がる.

 「麒麟がくる」の国際的時代背景を考えると,明治維新の時代背景と同じ状況が300年前に起きていたこと,そして,戦乱で生み出された国内のエネルギーが,戦乱終息後に朝鮮を始めとして隣国への出兵行為として現れたこと.そして,明治維新の清算が1945年の敗戦で行われ,その後の復興と経済成長から失われた30年とコロナ禍での混乱の現状を考えると,15世紀から21世紀までの600年という時間の流れを今一度,我々日本人は考えて見る機会に直面しているのではないか.歴史に「もしも・・」はないが、本能寺の後,信長-秀吉ではなく,信長-光秀という選択肢がとられた場合を考えながら,最終回のドラマの描き方を見てみるのも興味深い気がする.

注1:明智光秀の出生年には諸説があり,不明とされるが,1516年と1528年の2つの説が有力とされる.
注2:1543年に種子島に鉄砲が伝わった翌年には,種子島で国産鉄砲が生産され,1556年頃には国内には30万挺を超える鉄砲が流通し,輸出もされていた[1].
注3:日本(室町幕府)と中国(明)との交易は室町幕府第3代将軍足利義満と明朝第3代永楽帝との間で始まった勘合貿易が遣明船と呼ばれる船を使って行われた.その最終交易の第19回遣明船は1547年出港,1549年日本帰港とされる.[1]
注4:フェリペ2世は,ハプスブルク家のカスティーリャ王国・アラゴン王国の国王(1556~98年),イングランド王フィリップ1世(Philip I),そしてポルトガル国王フィリペ1世(Filipe I:1580~98年)を兼ねたことにより,イベリア半島を統一すると同時にポルトガルが有していた植民地も継承し,「太陽の沈まぬ国」の国王として君臨した.また, 1571年,教皇ピウス5世の提唱した神聖同盟(カトリック教国の連合)に加わって艦隊を派遣,レパントの海戦でオスマン帝国海軍を破り,イスラムの地中海勢力を払拭した.
注5:増田[1]は,1543年の種子島鉄砲伝来から1639年の寛永鎖国まで期間を南蛮時代と定義している.
注6:スペイン王国の1部であったオランダは1568年にスペインからの独立戦争を始めた.そして,1581年にオランダ(ネーデルラント)北部諸州はフェリペ2世の統治権を否認する布告を出した.これに対し,1588年にフェリペ2世はネーデルラント北部諸州を支援していたイングランドを攻めるために無敵艦隊を派遣した.しまし,アルマダの海戦(1588年:Armada Wars)で敗北した.これを契機にスペインの衰退とイギリス・オランダの隆盛というヨーロッパ(キリスト教国圏)の世代交代が起きた.1600年イギリス東インド会社,1602年オランダ東インド会社設立,1609年オランダ商館(平戸),1613年イギリス商館(平戸)を経て,1648年に30年戦争の終結としてのウェストファリア(ヴェストファーレン:Peace of Westphalia)条約でオランダはスペインから独立した.
注7:伊達正宗がフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使,支倉常長(ハセクラ ツネナガ)を副使として,スペイン国王フェリペ3世およびローマ教皇パウロ5世のもとに派遣した使節であるが,この使節派遣の意図は正宗がスペインのマニラ-カリフォルニア(メンドシノ岬:Cape Mendocino,北緯40度付近)に至る航路を使い,太平洋をまたぐ貿易権益を得るためという説もある.この航路は,アンドレス・デ・ウルダネータ:Andrés de Urdanetaとミゲル・ロペス・デ・レガス:Miguel López de Legazpi(スペイン人)が1565年にフィリピンから北東に進み北緯38度から貿易風に乗って太平洋を横断しカリフォルニアに至る航路開拓によってもたらされたものであった.正宗の居城があった仙台は北緯38度の周辺に位置していた.ちなみに,この航路を狙っていたのは正宗以外に徳川家康・秀忠親子であったという説もある[3].

参考文献・資料
[1] 増田義郎,日本人が世界史と衝突したとき, 弓立社(1997)
[2] 増田義郎, 図説 大航海時代,河出書房新社(2008)
[3] 平川 新, 戦国日本と大航海時代 : 秀吉・家康・政宗の外交戦略,中央公論新社(2018)
以上
(令和3年1月)

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