コラム KAZU'S VIEW

2021年03月

2011.3.11から10年の歳月の意味を考える- Fukushima 50が教えること-

 2011(平成23)年3月11日(金)14時46分18.1秒[1]に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災,マグニチュード9.1)から10年という月日が過ぎ去った.この10年は短いのか,長いのか日本人それぞれにこの時間の受け止め方は異なるであろう.しかし,この記憶は今を生きる我々が忘れてはならない1つであろう.この日の前後で様々な情報メデイアが特集を組んでいた.その中で,NHKと民放TV局が連携して,当日前後の津波画像を連携編集した映像を見た.10年前の津波のリアルな状況が,改めて自然の驚異というか,警告を自らのコロナぼけした脳裏に鮮やかに蘇らせた.あの10年前の経験は,日本人をどのように変えたのか,を考えてみた.

 「Fukushima 50(フクシマ フィフティ)」というタイトルの映画をTVで見て,知った.このタイトルは,2011年3月15日,東電福島原発1号機と3号機の水素爆発があった後,第2号機のサプレッション・チェンバー(Suppression chamber:格納容器の圧力調整抑制室)の圧力が零となった時(注1),その後に自らの意思でその場に残った69人を(注2),海外メデイアがFukushima 50 と呼んだことに由来する[2,3].この映画の監督は,若松節朗(セツロウ),主演は佐藤浩市{伊沢郁夫(クニオ)原子炉1,2号機当直長役}と渡辺 謙{吉田昌郎(マサオ)福島第一原子力発電所所長役}であった.原作は,門田隆将(リュウショウ)著,「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発」[3]である.この映画を見終わった後に感じたものは,第二次大戦時の特攻隊隊員の気概を連想させたものだった.福島第一原発の中操棟(中央制御室)に残った人達の動機を表現する言葉に,「家族を守るため」,「生まれ故郷を守るため」,「愛する人達を守るため」に死地に残る,という言葉であったからだ.

東電福島第一原発(双葉郡大熊町大字夫沢字北原)の立地場所は,かつて日本陸軍磐城(イワキ)飛行場(熊谷陸軍飛行学校磐城分校/長者ヶ原陸軍飛行場)であった.福島県双葉郡の双葉町と大熊町の間にある長者ヶ原と呼ばれた海に面した高台に,昭和15(1940)年4月,日本帝国陸軍が飛行場を設置することが決定し,着工し,翌年,昭和16年4月に完成している.昭和20(1945)年2月には磐城飛行場特別攻撃教育隊として独立し,学徒動員の学生を対象に「特攻」の訓練もするようになった[2,4].しかし,アメリカ海軍艦載機の攻撃を受けて飛行場は壊滅し,そのまま終戦を向かえた.この場所に,福島第一原発1号機が,昭和41(1966)年にアメリカのGE社によって着工された.2号機は昭和44(1969)年に,GEと東芝によって,その後,1970年に3号機が東芝,4号機が1972年に日立によって建設され,原子力発電所の純国産化が進められた.最終的に,福島第一原子力発電所は6号機(1973年着工,1979年営業運転開始)が出来上がり,首都圏に電力を送る送電線,福島幹線が南西に向かって構築された.その後,1975~87年にかけて東電福島第二原発(双葉郡楢葉町大字波倉字小浜作12)に4つの原子炉が建設された.この時点で,双葉郡の20Km圏内に10基の原子炉が設置され,総発電能力469.6万KW(定格電気出力)が確保された.昭和50(1975)年,原子炉の寿命は40年とされた.従って,福島第一原発1号機は,1971年3月の営業運転開始から40年後,すなわち,2011年3月で廃炉とされるはずの老朽機だった.しかし,東電は,2010年3月に,最長2031年まで使えるという評価書を国に提出し,国は翌2011年2月に,10年減らした2021年までの運転継続を認可した[2].つまり,延長認可の翌月,当初,廃炉予定の月に,あの大震災と大津波,そしてその後,全ての電源を失った1~4号機は,人智の手を離れ,暴走を始めた[2].このような巡り合わせをどのように受け止めれば良いのか.さらに,21世紀を迎え,海外では,2001年9月11日にイスラーム過激派テロリスト集団アルカイダによってアメリカ同時多発テロ事件が発生し,これを受けて米国原子力規制委員会(Nuclear Regulatory Commission:NRC)は2006年にテロ対策に関する文書の中で,原発の全電源喪失下の手動による操作手順や必要装備を定めている.この文章は日本にも伝えられている[2].また,2004年12月26日スマトラ島沖地震(マグニチュード9.3)で22万人の死者が出た事は,津波の脅威と原発における全電源喪失と冷却不能への対応を我々に示唆している,と門田[2,3]は指摘している.これに対し,1992年原子力安全委員会は「30分以上の長時間の全電源喪失について考慮する必要はない.」と報告書をまとめ,安全指針の改定を見送っていたことも2012年に明らかになった[2].当時の政権は,2009年9月に鳩山内閣を皮切りに,2012年12月の野田内閣まで,3代にわたる民主党政権であり,この期間は,それまでとその後の自民党政権(注3)とは異なる政権が担当するという政治的混乱期でもあった.

10年の歳月を経て我々は現在,新型コロナウイルス感染症拡大に目を奪われている.Fukushima 50を通じて当時の福島第一原発事故現場に直接関わった人々の様子や行動,心理状況を知り,現場の歴史や当時の国内外の状況を踏まえると様々な思いが巡る.第二次大戦中に特攻要員の訓練の場に集まった人々と,歴史上最大の原子炉事故が発生する危険姓(注4)に直面し,これを自らの命をかけて防ごうとした人々が同じ場所で,60年余りを隔てて同じような心情で行動していたであろうことなど.そして,10年の月日を経て,原子力規制委員会は2021年3月24日の定例会で,東京電力柏崎刈羽原発(注6)のテロ対策設備の不備が長期間続いていた問題に法令違反があったとして,東電に原子炉等規制法に基づき,同原発内の核燃料の移動を禁じる是正措置命令を出す方針を決めた.また,個人的に支援させていただいている,いわき市の方から頂いた資料と手紙[7]には,2021年2月13日の福島県沖を震源とした震度6強(マグニチュード7.3,東日本大震災の余震と考えられる)の地震の際,当初,大きな被害はないとされたが,その後,東電第一原発で高濃度処理汚水の貯蔵タンクの土台が崩れたこと,メルトダウンしたデブリの冷却水がこぼれだし,水位が急激に低下したこと,原子炉内圧力が低下し,爆発の危険が高まった事などが地元には報道されたという.10年たっても地元の方々の不安と不信は続いている.被害者が,真実を共有出来ない現状は,東京電灯会社(現東京電力ホールディングス株式会社)の設立発起人である渋沢栄一(シブサワ エイイチ:注7)の志を繋いで来ているのか.彼は今の我々をどのように見ているのであろうか.「晴天を衝(ツ)け」の言葉が空しさを漂わせている.Tokyo2020の聖火リレーが福島から始まった.この火が10年前の出来事を日本人として真摯に受け止め,情報共有による信頼形成のためのかがり火となり,これからの10年後の1人1人の志を照らし出す光となるものにしていくことが,必要ではないか.

注1)これは原子炉格納容器に穴が空き,放射能が外部に漏れ出すことを意味する[2,3].
注2)この時の東電福島原子力発電所の故吉田昌郎所長が,原子力発電所関係者に退避命令を出した.待避するか,残るかは各自の自己判断に任された.これに対し,2014年5月の朝日新聞は,「所長命令に違反し,所員の9割が撤退した」という記事を掲載した.しかし,朝日新聞は9月11日にこの記事が誤報であることを認め,全面撤回している[3].
注3)自社さ連立政権(ジ シャ サ レンリツセイケン)は,平成6 (1994)年6月から平成10(1998)年6月までの自由民主党,日本社会党(1996年1月以降は社会民主党),および新党さきがけによる連立政権時代を含む.
注4)全電源喪失の下での原子炉冷却は消防車とヘリコプターを使って海水を用いて連日行われた.この作業は,高放射線濃度の環境下で発電所所員や自衛隊隊員によって行われた.結果的に最悪の事態,すなわち,原子炉が爆発すれば,連鎖して4号機までの爆発が起き,放射能の拡散に伴い20km圏内にある第二原発への拡大により,10基の原子炉からの放射能漏れにより,チェルノブイリ事故(注5)の10倍の被害を故吉田所長は懸念していた[2].その結果,日本は北海道と関西以西が,東京を含む東北,関東,信越,中部地域の放射能汚染地域で分断されると考えていた[2].
注5)チェルノブイリ原子力発電所事故は,1986年4月ソビエト社会主義共和国連邦(旧ソ連)の構成国,ウクライナ・ソビエト社会主義共和国のチェルノブイリ原子力発電所4号炉で起きた原子力事故である.放射性物質は風に乗って北半球の全域に拡散した.日本では,1986年5月3日に雨水中から放射性物質が確認された[6].その後に決められた国際原子力事象評価尺度(International Nuclear and Radiological Event Scale:INES)では「深刻な事故」を示すレベル7(Major Accident)に分類された.このレベルは最大深刻レベルで福島第一原発事故と同レベルである.
注6)所在地は,新潟県柏崎市青山町16-46で,1~7号機構成で合計出力は821.2万kW.1969~1997年の間に全号機の営業運転を開始している[6].
注7)渋沢栄一は,日本資本主義の父といわれる.理化学研究所の創設者. みずほ銀行,東京瓦斯,東京海上火災保険,王子製紙,日本製紙,東京急行電鉄,太平洋セメント,帝国ホテル,秩父鉄道,京阪電気鉄道,東京証券取引所,キリンビール,サッポロビール,東洋紡績など500社の創設に関与. 夢七訓として,「夢なき者は理想なし,理想なき者は信念なし,信念なき者は計画なし,計画なき者は実行なし,実行なき者は成果なし,成果なき者は幸福なし.ゆえに幸福を求むる者は夢なかるべからず.」などを残している.
参考文献・資料
[1] 気象庁,平成 23 年3月 地震・火山月報(防災編),
https://www.data.jma.go.jp/svd/eqev/data/gaikyo/monthly/201103/monthly201103.pdf, 2021.3.11アクセス
[2] 門田隆将,死の淵を見た男 : 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日,PHP研究所(2012)
[3] 門田隆将,死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発, KADOKAWA (2016)
[4] 街道Web,ver4.0-福島県浜通りの飛行場跡 2- 2016.02 
http://kaido.the-orj.org/air/iwaki.htm, 2021年3月11日アクセス
[5] インターネットアーカイブ,1986年チェルノブイリ原子力発電所事故及び1997年動燃東海事故由来の放射性核種の輸送,web.archive.org (2005年7月16日) Wayback Machine, 
https://www.mri-jma.go.jp/Dep/ap/ap4lab/recent/ge_report/2003Artifi_Radio_report/chapter9.htm,
2021.3.11アクセス
[6]東京電力ホールデイングス(株)新潟本社,プレスリリース,
https://www.tepco.co.jp/niigata_hq/data/press/index-j.html, 2021.3.11アクセス
[7] 認定NPO法人いわき放射能市民測定室たらちね,測定ラボ報告(2021)
以上
令和3年3月

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