コラム KAZU'S VIEW

2022 年06月

日本人のルーツを考えてみる-神話と歴史を融合するアプローチへの共感性-

 先月のコラムでは,人口減少について「日本民族滅亡」仮説という日本の未来を考えて
みた.このコラムでは,日本民族の原点について,その歴史を遡って過去について考えてみようと思う.これまでのコラムでも,神話や縄文・弥生時代などについて断片的に触れてきた.この背景には,自分自身があるきっかけで日本人の起源について興味を持っていたことがある.それは,国は覚えていないが,東南アジアに出かけた折,現地の方から,おまえは何人か?という質問を受け,”I am a pure Japanese.”と回答したら,質問者が不思議な顔をしたことがあった.そのことが強く印象に残っていた.そして,自分の回答をよく考えると,Pure Japaneseとは何だ?という疑問が沸き上がった.以来,日本人とは何かを折に触れて考えるようになった.今回たまたま,手にした田中英道(タナカ ヒデミチ;注1)監修の「日本」とは何か,「日本人」とは何か[1]という特集冊子にあった「考古学から神話を見直す」,「神話は歴史である」という言葉に強く惹かれた.そこで,彼の説を自分なりに整理して,その共感性を考えてみた.

田中説で一番興味を惹いたのは,一万六千年前頃の縄文遺跡の95%が関東,東北,中部地方
で発見されていることを根拠として(注2),7,8世紀に書かれた古事記(注5)や日本書紀(注6)に出てくる神話にある高天原(タカマガハラ)は,関東にあったとする主張である.その国の名を日高見国(ヒ タカミノ クニ:太陽が昇るところを見る国の意味)としている点である.更に,天皇家と関係する神宮(ジングウ:注7)である伊勢神宮(注8),鹿島(カシマ)神宮,香取(カトリ)神宮の3神宮の内,鹿島神宮(茨城県)と香取神宮(千葉県)の2つがいずれも関東にあり,この2つがかつての常陸(ヒタチノ)国にあったことから.この場所が日高見国であり,そこに天皇家の故郷である高天原があったと論じている.つまり,日高見国は,緩やかに形成された氏族連合(家族共同体)国家として鹿島神宮と香取神宮の2つの神宮を中心とする祭祀(サイシ)国であり,そこでは,太陽信仰や自然信仰を共通基盤として,縄文土器のような芸術性の高い文化を持っていたとしている.そして,日本の神の名前は,何代かを経て長者として神式された家の家系を,神の名前に託して呼んだのではないかと推測する.例えば,天照大神(アマテラス オオミカミ)は,天照という非常に長く続いている母系制の家系の呼称と言うことになる.これらの家系集団が天津神(アマツカミ:注9)として活動した国が,高天原で,それは関東にあったと結論づける.つまり,日本の歴史は関東からはじまったと,田中は主張する[3].更に,日高見国の人々(神々)がやがて関東から関西に移動するという,日本の民族大移動として天孫降臨(テンソンコウリン:注10)を位置づけている.すなわち,三千年程前になると日本の気候が寒冷化したため,関東,東北に集中していた人口が西に向かい,これに移民や帰化人が加わり,弥生時代に近い二千年程前になると西日本の人口が増加する中で,帰化人の勢力が強くなった.そこで,東日本にいた日高見国の統治者は,西日本を統一するために,鹿島から鹿児島(注11)に船で移動することになり(注13),天孫降臨が始まったと論じている.その狙いは,当時,中国には秦(紀元前906〜206年)による統一王朝(紀元前226〜206年)ができるなどの国際情勢から,朝鮮半島を通って渡ってくる帰化人から九州を守ることであったという[3].鹿島から鹿児島に移った日高見国の末裔は,やがて九州を出て大和(奈良県),河内(大阪府)へと移動する.これが第1代神武天皇による東征になる.その結果,ヤマト王権(注14)が形成されていく.この時代は,古墳と埴輪で象徴される.なお,田中は,この時代の魏志倭人伝(ギシワジンデン:注15)に基づく邪馬台国(ヤマタイコク)は,文献根拠としての魏志倭人伝の信憑性と女王卑弥呼(ヒミコ)の名のついた神社や邪馬台国の遺跡,遺物がないことを根拠に,その存在を否定している[3].

これまで想像上の存在としてしか認識していなかった高天原と葦原中国という2つの世
界の垂直的位置関係を,「人は死んで神になる」という価値観をおくことで,神と人の関係を規定した上で,天孫降臨を東から西への水平的関係に変換して,民族移動として捉える視点は,非常にユニークで興味深い.更に,その発想が,遺物や遺跡といった物理的根拠を基礎に置く考古学に,物に対する文化的価値を踏まえて論理を組みたてている点が説得性を高めている.文化とは,価値観と行動様式である.例えば,神社や各種造形物は,信仰という価値観を見える化した具体的象徴物であり,神事や祭りは行動様式になる.また,地名の由来も同様の背景を持つ.文献のない縄文,弥生,古墳時代の歴史をどのように明らかにしていくのか,神話という物語の世界の情報を使って歴史をどのように解き明かすのか,という課題を,その時代の遺跡や遺物とそれを生み出した人々の価値観と行動様式およびその環境としての世界情勢といったコンテンツを,ジグソーパズルのピースとして組み立て,コンテクスト(文脈)化するアプローチで解き明かしていく.例えば,鹿島神宮にある4つの鳥居の中の「東一の鳥居」と本殿を結ぶ延長線上に香取神宮が位置している情報から,太陽が昇る姿をこの線上で見る事ができる地理的な位置として,太陽信仰を持つ人々が,東を目指して集結した場所が日高見国(高天原)であると意味づけている.この方法は,マネジメント分野の改善活動で用いられる現場(地),現物,現象という「三現主義」に基づくフィールドリサーチから帰結されたコンテクストづくりと同様なものと考えられる.このアプローチは,知識科学におけるデータ(資料),情報,知識・知恵への変換というアプローチと同一であろう.なお,田中の神話と歴史をつなぎ合わせるという発想は,フランスの人類学者,レヴィ・ストロース(注16)の「世界の神話はだいたい歴史との連続性がないが,唯一日本の神話だけは歴史と結びついている」[17]と言う言葉に後押しされている.

  日本人のルーツを神話の世界から歴史へと展開するプロセスを通じて考えるという試みを体験して見ると,そこには感性(直感性)と理性(論理性)の融合が必要になってくる.これは,左脳と右脳の振り子の振らせ方の問題にもなる.また,私が提唱してきた価値モデル,すなわち,価値を「誰の価値か?」と「どんな特性の価値か?」の2軸で分類し,更に,「誰の」を自分ならびに自分の所属する組織の内外,特性を心的,経済的,物的に細分化した平面上で,時間の変化に伴い価値が変化していくという価値変化の捉え方とも相通じるものがある.平成15(2003)年に,このコラムを書き始めたきっかけは,自分の心の動きである「感動」を文字で残すという「行動」を通じて,自分自身の感動と行動の振り子の履歴を残すことであった.そして,最初のテーマが「和魂和才」であった[19].このテーマは,明治時代の「和魂洋才」について,平成15年当時の日本の状況を,上記の価値モデルを前提に,「洋魂洋才」になっていると分析した上で,和魂和才に回帰すべきことを主張したものであった.そこで遡った日本の歴史は,6世紀の聖徳太子までであった.今回,6世紀から日高見国の時代まで遡って見ると,時間の単位の大きさが大きく異なることを確認できた.この点では,歴史の変化速度の加速化の影響も考慮する必要がある.日本人のルーツを探す私の旅は,これからも続く.今回,その旅の仲間が増えたことに感謝したい.

(注1)田中英道は,昭和17(1942)年に東京で生まれ,東京大学文学部仏文科を卒業後,フランスのストラスブール大学でPh.D.取得.その後,東北大学で文学博士号を取得.東北大学名誉教授でフランス,イタリア美術史の研究の第一人者として活躍する一方,日本独自の文化・歴史の重要性を提唱し,日本国史学会の代表を務めている.著書には,ミケランジェロの世界像(東北大出版会),レオナルド・ダ・ヴィンチ-芸術と生涯,日本美術全史(講談社),世界文化遺産から読み解く世界史,日本が世界で輝く時代,新日本古代史(育鵬社)など多数.物の形を比較して,そこにある意味を読み解くことで,文献等の言葉,文字によらない論証を行うという学術的アプローチの「形象学(フォルモロジ−)」を提唱し,文字のなかった時代の埴輪(ハニワ)や縄文土器のような遺物や遺跡の形からその時代の歴史を論理構成し,様々な古代史解明に取り組んでいる[1][2].
(注2)平成4(1992)年に発掘された三内丸山遺跡(サンナイマルヤマイセキ:注3)を契機に,日本の3万〜1万年前の後期旧石器時代の遺跡の多さ(朝鮮半島の50遺跡に対し,日本には10150遺跡ある)から,当時の日本の人口の多さに着目している[3].その理由を,10万年前にアフリカで誕生したホモ・サピエンスが,太陽信仰(太陽への憧れ)を動機付けとして,太陽の昇る所を目指して,船などを乗り継いで東に移動し,極東の日本までたどり着いたと,ゴブスタンの岩絵(アゼルバイジャンのゴブスタン国立保護区にある壁画で5千〜2万年前に作成されたものとされる)に描かれた船の画から推理している.さらに,最近,北南米に縄文人や縄文土器が発見されたことを踏まえ,日本からさらに東を目指した人々がいたとしている.ただし,この考えを反証する論文[6]も出ており,結論は今後の課題になっている.
(注3)三内丸山遺跡は,青森県青森市大字三内字丸山にある,縄文時代(注4)前期中頃から中期末葉(紀元前5100-3800年)の大規模集落跡である.1997年に国の特別史跡に指定され,2021年には国際連合教育科学文化機関により,「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界文化遺産に登録された[4].
(注4)縄文時代は,日本列島における時代区分の一つである.旧石器時代の後に当たり,世界史では中石器時代ないしは,新石器時代に相当する時代である.年代対応で見ると,旧石器時代(〜紀元前14000年頃),縄文時代(紀元前14000年頃〜紀元前1000年頃),弥生時代(紀元前1000年頃〜紀元後300年中頃,古墳時代(300年中頃〜700年)となる[5].
(注5)古事記は, 日本最古の歴史書とされ,和銅5(712)年に太安万侶(オオノ ヤスマロ)が編纂し,第43代元明(ゲンメイ)天皇(女帝)に献上された.上中下の3巻から構成され,内容は天地開闢(テンチカイビャク:この世のはじめ)から第33代推古(スイコ)天皇(日本最初の女帝)までの記事である[7].
(注6)日本書紀は,奈良時代に成立した日本の歴史書.養老4(720)年に完成したとされる.日本最古の正史(国家によって公式に編纂された王朝の歴史書)で, 天地開闢から第41代持統天皇(女帝)の時代までを扱われている[8].
(注7)日本書紀では,伊勢神宮,石上神宮(イソノカミジングウ:奈良県),出雲大社(島根県)のみが「神宮」と記載されている.その後,平安時代に成立した延喜式神名帳(エンギシキジンミョウチョウ)では,伊勢神宮内宮,鹿島神宮,香取神宮が「神宮」と表記されている[9].
(注8)伊勢神宮は,三重県伊勢市にある神社.天照大御神(アマテラスオオミカミ)を祀る皇大神宮(コウタイジングウ)と,衣食住の守り神である豊受大御神(トヨウケビメ)を祀る豊受大神宮(トヨウケダイジングウ)の二つの正宮(ショウグウ)があり,一般に皇大神宮は内宮(ナイクウ),豊受大神宮は外宮(ゲクウ)と呼ばれる. 伊勢神宮は皇室の氏神である天照大御神を祀るため,歴史的に皇室・朝廷の権威との結びつきが強い[10].なお,伊勢神宮の創建は, 第11代垂仁(スイニン)天皇によりなされ,鹿島神宮と香取神宮より,600年以上後とされている[1],[3].
(注9)天津神とは日本神話に出てくる高天原に住んだ神,またそこから地上にくだった神とその子孫の神々をいう.天つ神,天神ともかき,天神は「てんじん」ともよむ.これに対し,国津神(クニツカミ)と呼ばれる神がおり,これらの神の違いは,以下の3つの視点によるとされる[11].
   ‥慶顛世降臨する前から元々日本の大地に鎮座していた神を国津神.例えば,大国主命(オオクニヌシノミコト/大国主神).
   天津神が国津神になった神.例えば, 素戔嗚尊(スサノウノミコト).
   E慶顛世国津神になった後の末裔の神を国津神.
(注10)天孫降臨とは, 古事記と日本書紀に記された日本神話で, 高皇産霊尊(タカミムスビノカミ)の意向によって(天照大御神の神勅という説もある)葦原中国(アシハラノナカツクニ)を治めるために,高天原から筑紫の日向の高千穂峰へ邇邇藝命(ニニギノミコト:天照大神の孫で第1代神武天皇の曾祖父)が,三種の神器をたずさえ,高天原から地上へと向かうという話[13].
(注11)鹿島と鹿児島(カゴシマ)という地名の関係について,田中[3]は,「かしま」が「鹿島」と表記されるようになったのは,続日本紀(ショクニホンギ:注12)が最初で,それ以前の文献では「香島」が使われており,この香島は「カグシマ」と発音されていたのではないかと推測した上で,鹿島と天孫降臨の地とする鹿児島は同じ名前だとしている.
(注12)続日本紀は,平安時代初期に編纂された勅撰史書で,日本書紀に続く六国史の第二にあたる.菅野真道(スガノノマチミ)らによって延暦16(797)年に完成した.第42代文武(テンム)天皇から第50代桓武(カンム)天皇までの95年間の歴史を扱っている[12].
(注13)天孫降臨が鹿島から船によって行われたという根拠として,鹿島で現在も行われている「御船祭(オフネマツリ)」と防人(サキモリ)が常陸国から集められ,鹿島から九州に船で出発したという「鹿島立(カシマダ)ち」という言葉を根拠にしている.
(注14)ヤマト王権は,3世紀後半以降から奈良盆地に成立したのちの大王を中心とする豪族たちのゆるやかな連合勢力のこと. 政治体制を示す用語として,「朝廷」は天皇と貴族による中央集権政治という意味合いが強いため, 成立当初,まだ「朝廷」という語にふさわしい政治制度をもっていなかったので「王権」と表記する.また,「ヤマト」は,当時の名称表記として「倭」,「大和」,「大養徳」などと様々な漢字が用いられていたため,「大和朝廷」という表記は用いない[14].
(注15)魏志倭人伝は,中国の歴史書の三国志中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝(ウガンセンビトウイデン)倭人条の略称で,当時の日本列島にいた民族,住民の倭人の習俗や地理などについて書かれており, 3世紀の日本列島を知る史料となっている.その中に,卑弥呼を女王とする邪馬台国という国やそれ以外の国の存在も示されていると言われている[15].
(注16)クロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss:1908-2009年)は,フランスの社会人類学者,民族学者で人類学,神話学を専門とするが,あらゆる現象に対して,その現象に潜在する構造を抽出し,その構造によって現象を理解しようとする「構造主義の父」とされる.構造主義の適用例として料理を例に見ると,「料理の三角形」モデルが示され,料理は,生もの,火をかけたもの,腐ったものの3つに分類される[16].ここから,火をかける料理法には,「焼く」,「煮る」,「燻製にする」というパターンがあることが説明できる[18].

参考文献・資料
[1] 萩原敬大編集,田中英道監修,日本人の記憶を旅する-新・日本古代史-,ルネサンス,Vol.7,ダイレクト出版,pp.2-14(2021)
[2] 田中英道,田中英道のホームページ-美の探求者歴史と思想を語る-,
http://hidemichitanaka.net/?page_id=69 ,2022年6月20日アクセス
[3] 田中英道,日本国史・上-世界最古の国の新しい物語,育鵬社(2022)
[4] フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』, 三内丸山遺跡,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%86%85%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E9%81%BA%E8%B7%A1#cite_note-1
,2022年6月20日アクセス
[5] フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』,縄文時代,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3
,2022年6月20日アクセス
[6] ロベルト・ルナゴメス・レイイェス著,南智博訳,パレオ・インディオとアメリカ大陸最古の土器文化,年報人類学研究,第12号,pp.272-278(2021)
https://rci.nanzan-u.ac.jp/jinruiken/publication/item/d851438cae96be090cc72fd4b9f587b700a8e7d8.pdf
 ,2022年6月20日アクセス
[7] フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』,古事記,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98 
,2022年6月20日アクセス
[8] フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』,日本書記,
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80
,2022年6月20日アクセス
[9] フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』,神宮,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%AE%AE
,2022年6月20日アクセス
[10] フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』,伊勢神宮,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%A5%9E%E5%AE%AE
,2022年6月20日アクセス
[11] ジュン,天津神と国津神の違い,神仏ネット,
https://shinto-bukkyo.net/shinto/kamisama/%E5%A4%A9%E6%B4%A5%E7%A5%9E-%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%84%E3%82%AB%E3%83%9F/
,2022年6月20日アクセス
[12] フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』,続日本紀,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%9A%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80
,2022年6月20日アクセス
[13] フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』,天孫降臨,
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%AD%AB%E9%99%8D%E8%87%A8#cite_note-2
,2022年6月20日アクセス
[14] 帝国書院,「大和朝廷」ではなく,「ヤマト王権」という用語を使うのはなぜですか,
  https://www.teikokushoin.co.jp/junior/faq/detail/939/
,2022年6月20日アクセス
[15] フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』,魏志倭人伝,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D
,2022年6月20日アクセス
[16] 川端晶子,レヴィ・ストロースの料理構造論-料理の三角形から料理の四面体へ-,日本調理科学会誌,Vol.44,No.1,pp.97-98(2011),
https://www.jstage.jst.go.jp/article/cookeryscience/44/1/44_97/_pdf
,2022年6月20日アクセス
[17] クロード・レヴィ=ストロース著,川田順造訳, 月の裏側 (日本文化への視角),中央公論新社(2014)
[18] 福田育弘,飲食にみる自然と文化の関係-フランス料理の八角形と日本料理の四角形-,早稲田大学教育・総合科学学術院学術研究(自然科学・社会科学編),第68号,pp.209-233(2020)
[19] 石井和克,2003年09月「和魂和才」,https://ishii-kazu.com/column.cgi?id=1
,2022年6月20日アクセス

令和4年6月
以上

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