コラム KAZU'S VIEW

2022 年07月

安倍元首相の死について考えること

今月のニュースには,インパクトのあるものが目白押しであった.安倍元首相選挙応援演説中に狙撃され死亡,オミクロンBA.5 による感染者急増加で第7波突入,参議院選自民圧勝・参政党一議席獲得,世界陸上で日本選手活躍(男子100m決勝でサニーブラウン7位,女子やり投げで史上初のメダル獲得・・・)などなど.この中で,安倍氏の事件についてが,気になり,その理由を考えてみた.

故安倍晋三(アベ シンゾウ:1954-2022年)氏は, 第90・96・97・98代の首相を歴任している.これは,2006-07年の第一次内閣と2012-20年の第2次内閣の2回の首相経験者を意味し,現行憲法下では史上初になる.また,戦後最年少で,戦後生まれとしては初めての首相であった.第2次内閣では組閣回数11回と歴代最多,さらに,連続在職日数2822日,通算在職日数3188日といずれも歴代最長である.辞職理由はいずれも健康上の問題とされている.彼の在任中の国家観は,「美しい国」[1]と表現され, 現憲法下での行政システムや教育,経済,安全保障などの枠組みが時代の変化についていけなくなったとし,それらを大胆に見直すとしていた.第1次,2次内閣を通じ,「価値観外交」[2]を外交の基本路線とした.価値観外交は,自由,民主主義,基本的人権,法の支配という普遍的な価値観を共有する国の輪を世界,アジアに拡大して行くことを目指す外交戦略である.この戦略は,中国を強く意識したものであるが,直接的対抗手段を取るのではなく,インドシナ半島という中国とインドのアジアにおける大国の干渉地域を重点にした東南アジアにおける勢力バランスを,連携による安定的外交関係の構築によって取ろうとする狙いがあったのではないか.これは,2010年のGDPにおける日本と中国の経済的位置関係の逆転現象や尖閣列島問題に見られる中国の軍事的脅威性を強く意識したものである.その具体的な結果が, Quad(Quadrilateral Security Dialogue: 日米豪印戦略対話:注1)であろう.その戦略の背景にある国家観としての美しい国とは,どのようなコンセプトかを,その著書,「新しい国へ-美しい国へ完全版」[1]で探してみた.2012(平成24)年12月時点での「まえがき」に「この国をどこに導くべきかをこの著書に示す」と言う記述は確認できたが,「美しい国とは」という文章を著書の中から見いだせなかった.そこで,文脈から推測しようと試みた.第3章の「ナショナリズムとはなにか」の中の記述に,特攻隊員の鷲尾少尉という方の日記の事例が示されていた.その中で,「はかなくとも死せりと人の言はば言へ,我が真心の一筋の道」という文章を上げている.そして,その解釈として.死を目前とした若者の心情を,愛しい人を想いつつ(私),その人々の暮らす国の悠久の歴史の継続を願う(公)という価値観として認識しようとしている.この価値観は,個人と社会(国)の融合の文化を意味し,田中英道の日本文化の特徴認識である「共同体(国)と個人は一体である」[5]という日本文化の認識と共通性が見られる.

元首相襲撃事件で思い出されるのは,初代首相の伊藤博文(イトウ ヒロブミ)である.4回(初代,5代,7代,10代)の首相を務め,帝国憲法を制定し,1909(明治42)年に初代韓国統監を辞職した後,中国ハルビン(哈爾浜)駅において韓国の民族主義運動家の安重根(アン・ジュングン:注2)に狙撃されて死亡したとされる.この当時の韓国は,ロシアの南下政策に対抗する日本の防衛戦略の緩衝地帯として最重要視されていた.その背景として,日清戦争(1894-1895年)によって日本が清国から割譲した遼東半島を,ロシアがフランスとドイツと共同し,三国干渉(1895年)により清に返還さると共に,露清密約(1896年)により満州地域の植民地化を進めていた.そして,義和団の乱(1900年)に乗じて,満州を軍事占領した.この日露の緊張に対し,日本は日英同盟(1902年:注3)締結により対抗する戦略をとり,韓国はこの2国の軍事的緊張の最前線となった.当時,ロシアの南下政策に対する日本の対抗戦略には以下の2つがあった.1つは伊藤らの主張する,日本は満州でのロシア帝国の優越権を認める代わりに,朝鮮半島での日本の優越権を日露相互に認めあう満韓交換論(注4)と,桂太郎らのロシアを信用せずに欧米列強と協力して対抗し,日英同盟の締結を進めると共に韓国を保護国化する,というものであった[8].結果的に満韓交換論は消滅し,日露戦争(1904-05年)によってその決着がつくことになる.その結果,日本はポーツマス条約(1905年)によって遼東半島の租借権を初め,朝鮮半島の監督権を得た.その後,日英同盟の下で日本の朝鮮半島支配とイギリスのインド支配が相互承認され,アメリカと桂・タフト協定(1905年)でアメリカのフィリピン支配権との相互確認(密約)をした.さらに,フランスと日仏協約(1907年)でフランスのインドシナ支配との相互確認,さらに,ロシアと日露協約(1907年)でロシアの外蒙古での特別権益との相互承認を経て,1910(明治43)年に韓国併合(注5)にいたった[8].安の犯行は,祖国が国際勢力バランスの渦中で,外交の具とされている状況に対する不満のはけ口を,支配者のシンボルとしての初代首相,初代韓国統監である伊藤に見出そうとしたのではないか.

  人生の終末を狙撃されることで終えた複数回の首相経験を持つ二人の日本の元首相について思いを馳せてみた.100年余りの時の流れが,伊藤博文という故人に対する現在の日本人の捉え方を形成している.一方で,今の日本人が故安倍晋三氏に対し,同じ時間を共有した人間として抱く人物像と,100年後の日本人が彼をどう捉えるかには大きな違いがあるだろう.一方で,彼らが日本のリーダーとして,国の行く末と隣国との友好関係をどのように築くかという問題を考えた時,日本,中国(清)そしてロシアという3つの国と欧米諸国間とのバランス問題という点に変化はない.しかし,この3つの国のそれぞれの100年間の歴史には大きな変化があった.ロシアは,帝政が倒れ,ソ連という歴史上初めての共産主義国の建設とその崩壊という過程がある.中国は,清王朝から中華民国,そして中華人民共和国として現在,唯一の共産党独裁国でありながら市場経済メカニズムを採用すると言う歴史上はじめての社会システムで,アメリカをしのぐ経済的勢いを持つ国に変貌している.一方,その間,日本は明治以降の対外膨張政策が太平洋戦争で挫折し,アメリカを中心とした連合国の圧力の下に,戦後の混乱を切り抜け,1970年代にはJapan as Number One[13]と呼ばれた驚異的な経済的復興力を世界に示した.しかし,その後,失われた30年などと揶揄される中で,経済的競争力では中国の後塵を拝し,戦後の平和憲法の下で軍事力によらない世界秩序を構築しえなかった70年余りの歴史を経てきた.このような3国の歴史の過程の中で,故安倍氏の価値観外交は,物的価値,経済的価値および心的価値の中の心的価値を基軸とした戦略である.しかし,心的価値は心の問題であり,多様な宗教と価値観を持ち合わせるアジア諸国の中で,その扱いが最も難しい戦略である.現在の日本が直面している国内問題の1つとして,新型コロナ禍における自殺者の増加(注6)がある.今の日本の内と外における共通課題は,平和憲法を含め日本人の心的価値の創造問題である.故安倍氏への追悼は,我々日本人がそれぞれの立場で「美しい国」の心的価値を周辺諸国の人々に伝え,創造していくことについて考えることでできないか.心より,ご冥福をお祈りする.

(注1)Quad(クアッド)は,自由や民主主義,法の支配といった基本的価値を共有する日本,アメリカ,オーストラリア,インドの4か国の枠組み.2004(平成16)年のインドネシア,スマトラ島沖の巨大地震と津波の被害に対する国際社会の支援を4か国が主導したことをきっかけに,2019年に初めての外相会合が開かれた[3].中国の覇権主義的な動きを強く意識し, 自由で開かれたインド太平洋[4]を安倍元首相が提唱している.
(注2)安重根は,1879(明治12)年に海州(ヘジュ)府首陽山(現北朝鮮)の両班(リャンバン: 高麗,李氏朝鮮王朝時代の支配階級)の家の長男として生まれた[6].安重根は,犯行当時,この地を領有していたロシアの官憲にただちに捕縛され,拘禁された.日本政府は,彼を関東都督府地方法院に移し,1910(明治43)年,彼に死刑の判決を下し,同年,彼の死刑が執行された.彼は,敬虔なカトリック教徒であったとされる[7].
(注3)義和団の乱に乗じたロシアの満洲占領は,当時のイギリスにも脅威を与えた.当時イギリスは,長江流域に権益を持っていたが,ボーア戦争(注4)での軍事力投入により,極東に戦力を差し向けることができなかった.そこで,ロシアの南下を牽制する意味合いから日本に接近し,ロシアへの対応を模索していた日本との利害が一致し,1902(明治35)年の日英同盟へと繋がる[8].
(注4)イギリスとオランダ系アフリカーナー(ボーア人あるいはブール人とも呼ばれる)が,南アフリカの植民地化を争った,2回(1880-1881年,1889-1902年)にわたる戦争.南アフリカ戦争,南阿戦争,ブール戦争ともいう[9]. イギリス帝国主義の対外政策の1つで,イギリスが植民地として組み込んだ典型的な植民地獲得戦争であった.また帝国主義によるアフリカ分割を一段と進めることとなった[10].
(注5)1903年に日本はロシアに満韓交換論を提示したが,軍事的に勝るロシアに拒否され,逆に,ロシア側から朝鮮半島を南北に分け,南側を日本の勢力下に,北側を中立地帯として軍事目的での利用を禁ずるという提案を突きつけられた.伊藤はこの交換論の中で朝鮮の独立を考えていたとされる[11].これに対し,当時の日本としては受け入れられる提案ではなく,翌1904(明治37)年日本はロシアと国交を断絶.満韓交換論は完全に消滅し,両国は日露戦争に向かうこととなった [12].
(注6)新型コロナ禍は,日本人の自殺率に大きな影響を与え,その影響は女性と若い年齢層でもっとも顕著であることが,旭川医科大学と北海道大学の研究で明らかになった.研究グループは,厚生労働省自殺対策推進室が公表している自殺統計の月別自殺者数データ(暫定値)を用い, コロナ禍前(2016年1月〜2020年3月)と,コロナ禍後(2020年4月〜2021年12月)での,自殺率の推移の変化を調べ,過剰死亡数は男性1,208人,女性で1,825人だったとしている.なお,過剰死亡とは,もしコロナ禍がなければ起こらなかった可能性のある死亡者数を意味している[14].

参考文献・資料
[1] 安倍晋三,新しい国へ-美しい国へ完全版-,文藝春秋(2013)
[2] 宇佐美正行,中内康夫,寺林裕介,「価値の外交」は日本外交の新機軸となり得るか〜第166回国会(常会)における外交論議の焦点〜, 立法と調査 ,No.272,pp.3-12(2007)
https://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2007pdf/20070907003.pdf
,2022年7月20日アクセス
[3] NHK, 詳しく解説!クアッドってなに?焦点は?NHK政治マガジン,
https://www.nhk.or.jp/politics/articles/feature/82879.html ,
2022年7月20日アクセス
[4] 首相官邸,QUAD Leaders’Meeting Tokyo 2022,
https://www.kantei.go.jp/quad-leaders-meeting-tokyo2022/index_j.html
[5] 田中英道,日本国史・上-世界最古の国の新しい物語,育鵬社(2022)
[6] フリー百科事典(ウィキペディア(Wikipedia)), 安重根,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%87%8D%E6%A0%B9
2022年7月10日アクセス
[7] 教材工房, 安重根/伊藤博文暗殺事件-世界史用語解説 授業と学習のヒント-
http://www.y-history.net/appendix/wh1403-064.html
2022年7月10日アクセス
[8] フリー百科事典(ウィキペディア(Wikipedia)), 韓国併合,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E4%BD%B5%E5%90%88
 ,2022年7月20日アクセス
[9] フリー百科事典(ウィキペディア(Wikipedia)』, ボーア戦争,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%A2%E6%88%A6%E4%BA%89
,2022年7月20日アクセス
[10] 教材工房,南アフリカ戦争/ブール戦争/ボーア戦争-世界史用語解説 授業と学習のヒント-. http://www.y-history.net/appendix/wh1402-021.html ,
2022年7月20日アクセス
[11] 新渡戸稲造,偉人群像,実業之日本,(昭和6年)
[12] フリー百科事典(ウィキペディア(Wikipedia)),日露戦争,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89
,2022年7月20日アクセス
[13] Ezra F. Vogel, Japan as Number One: Lessons for America, iUniverse (1999)/エズラF.ヴォーゲル著,広中和歌子,木本彰子訳,ジャパンアズナンバーワン: アメリカへの教訓,TBSブリタニカ(1979)
[14] 日本医療・健康情報研究所/創新社,コロナ禍で自殺者が増加:若い世代や女性で顕著 追い詰められた人に支援が届いていない可能性,健康指導リソースガイド, https://tokuteikenshin-hokensidou.jp/news/2022/011247.php
 ,2022年7月20日アクセス
令和4年7月
以上

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