コラム KAZU'S VIEW

2023年06月

中国TVドラマの上陽賦から想像する中国,朝鮮そして古墳時代の日本

 
 中国TVドラマの「上陽賦(ジョウヨウフ)-運命の王妃-」という番組を見終わった.このドラマに何となく興味を惹かれていたが,その理由が自分自身で釈然としていなかった.主演女優の章子怡(チャン・ツィイー)(注1)の魅力も1つの要素かもしれないが,その時代背景が良く理解できていなかったことも影響していたと思う. 架空の古代中国の「大成(タイセイ)」を舞台とした史劇風時代劇とされていた[2].政情が不安定で戦いが絶えない時代背景の中で皇室,王氏や謝氏などの氏族という特権階級の恋愛ストーリーとその特権階級の王女が世間の荒波を通じて世界観を広げていくストーリー展開が印象強かった.原作は寐語者(メイユージョー)の小説(注2)とされているが,主人公でチャン・ツィイーが演じる王儇(オウケン)と周一囲(ジョウ・イーウェイ)が演じる蕭綦(ショウキ)のモデルは宋(420-479年/劉宋(注3))を築いた初代皇帝劉 裕(リュウ ユウ:420-422年在位)と皇后の臧 愛親(ゾウ アイシン)とされる(注4).そして,時代背景は東晋(317-420年)から南北朝時代(439-589年)にかけた4〜6世紀であるらしい.しかし,物語はフィクションでも,東晋を建てた司馬氏(注5)と名門貴族の琅琊王(ロウヤ オウ)氏(注6)は実在の人物である.このドラマの時代背景を考えて見ながら,このドラマの意味合いを自分なりに整理してみた.

中国史で東晋から南北朝時代といってすぐにその時代をイメージできる人はどれだけいるだろう.この時代の前には,魏・呉・蜀の三国時代(184-280年)があり,これが280年に司馬 炎(シバ エン)によって統一されて西普(280-317年)の時代になる.この三国時代を知る日本人は多い. 曹操,劉備,孫権などの三国志に現れる英雄の逸話に日本人は興味を惹かれる.しかし,その後に表われる西晋やその西晋が永嘉の乱(311-313年)で滅び,その後,司馬 睿(シバ エイ:元帝317-322年在位)によって江南に建てられた東晋(317-420年)は, 劉裕に禅譲され,420年に南朝宋(劉宋)になる.一方,華北は分裂して五胡十六国(注7)時代(304-439年)になるが,拓跋 珪(タクバツ ケイ:道武帝398-409年在位)がこれを統一し,北魏(386-534年)を作ることで南北朝時代となって行く. この南北朝時代とは, 北魏が華北を統一した439年から始まり,隋が中国を再統一する589年までの諸王朝が並立していた時期を指す. この時期,華南には宋,斉,梁,陳の4つの王朝が興亡し,南朝と呼ばれた.一方,建康(建業)(注8)に都をおいた三国時代の呉,これに続く東晋と南朝宋(劉宋)の4つの王朝は,六朝(リクチョウ),時代を六朝時代と呼んでいる.これに対し,華北では,北魏が六鎮(リクチン)の乱(523年)を経て,534年に東魏(トウギ),西魏(セイギ)に分裂する.東魏は550年に,西魏は556年にそれぞれ北斉(ホクセイ),北周(ホクシュウ)に代わられる.577年,北周は北斉を滅ぼして再び華北を統一する.その後,581年に隋の楊堅(ヨウケン:581-604年在位)が北周の禅譲を受けて帝位につき,589年に隋は南朝の陳を滅ぼし,中国を再統一した[9].中国の歴史上の王朝を見ると,夏,殷,周,秦,漢,晋に続く全国規模の王朝は隋(581-618年)まで表われない. 上陽賦の時代背景となった晋から隋の間の4〜6世紀の混乱した中国史は日本人には余り知られていないと思われる.高校の歴史の教科書には,少なくとも私が高校で世界史を学んだ際にはなかったように思う.日本にも戦国時代(室町時代末期から安土桃山時代)や南北朝時代(注9)はあったが,中国史におけるその規模と時間は桁違いである.中国史におけるこのような混乱の時代を分析すると,中国や東アジアの国々を日本人がより理解できるのではないかと,思ったりもする.特に,この時期の北方遊牧民の南下の活発化は, 騎馬兵力として漢人政権が傭兵化していた人々が,漢人と融和し,政治勢力化を強めて来た動きと捉えることができる.この動きは,同時期にヨーロッパで起きたゲルマン民族の大移動が,ローマ帝国の傭兵として移住することから始まったことと符合し,その後の歴史に大きな影響を与えた事象がユーラシア大陸の東西の端周辺で,同時に起こったことを意味している.

このドラマにおける人間関係の展開の中では,身分格差が1つのテーマになっている.ヒロインの王儇は, 父は宰相,母は皇帝の妹という設定になっている.一方, 蕭綦は, 孤児で村人から世話になって育つが,軍隊に入って頭角を現し, 「戦の神」と呼ばれ, 寧朔(ネイサク)軍の将軍として忽蘭(クラン)王を討ち取り.その戦功を称えられ,皇帝から皇族以外では異例の王爵を賜り「豫章王(ヨショウオオ)」になる,という叩き上げの立身出世の人物として描かれている.この身分差が, 王儇に取っては士族以外の社会を知り,その生活感を肌で知る体験となり,国のあり方を考える人物に成長することになる.その一方で,身近な人々が持つ身分に対するコンプレックスや出世欲により,破滅的人生を辿る人物(蕭綦の右腕だった宋懐恩や王儇の侍女だった蘇錦児)を目の当たりにする.この当たりは,混沌とした時代背景の中で能力主義的な人材論が伏線にあるのかもしれない.支配階級と被支配階級の交代という社会変革も含んだテーマ設定になっているのではないか.これは, 皇室,王氏や謝氏など,氏族という特権階級間での人間関係の描き方と対比して描いていることにこのドラマの特徴のもう1つがあるのかもしれない. すなわち,王儇の父親である王藺(オウ リン)は,皇帝馬曜(バ ヨウ)の義兄(皇后は王藺の妹)に当たる.一方, 王儇の母親である馬 瑾若(バ キンジャク)は,皇帝馬曜の妹という関係が設定されている. 王藺は皇帝馬曜を毒殺し,謀反を起こそうとするが,兄馬曜の死を追って妻の馬 瑾若が自ら命を絶つ.そんな父母の姿に絶望する王儇は,父の王藺が仕組んだ政略結婚の相手である蕭綦と夫婦となり,その人間性に触れる.そして,再び父の王藺が仕組んだ謀反を夫の蕭綦とともに阻む事になる[11].このような有力士族間の近親結婚による血のネットワークの中で,血で血を洗う皇位争いの歴史の中に禅譲による社会変革もあった晋や南北朝の歴史を映し出しているように思われる.これに対し, 北魏を起こした鮮卑族の拓跋氏には,血縁関係のない結婚を奨励した族外婚の文化があったとされ, 家系は一定せず,安定的な世襲がなされていなかった. 王儇が幼なじみで,子供の頃から将来を約束していた大成の第3皇子馬 子澹(バ シタン)と結ばれず,辺境の地で生まれ育ち, 豫章王まで上り詰めた蕭綦と相思相愛の夫婦となった展開には,新たな血を加えることで社会変革を起こすという発想があったのではないか.

中国で晋から南北朝にかけた時代は,日本では大和朝廷,倭の五王(注10)の時代であった. 倭の五王と中国王朝との交渉は421年の讃(倭の五王の1つ)の南朝宋(劉宋)への遣使に始まるとされる[12].3世紀の「親魏倭王(シンギワオウ)(注11)」以来,再び倭国王が中国史に表われる.この時代は,朝鮮半島の高句麗や百済などの朝鮮三国時代に相当する.日本,朝鮮および中国を時代的に横並びで眺めると,上陽賦というドラマも身近に感じられる.先月のコラム[15]で取り上げた韓国ドラマ,太王四神記の主人公のモデルとなった高句麗第19代好太王(在位:391-412年)と上陽賦の主人公のモデルとなった南宋初代皇帝武帝の劉 裕(在位:420-422年)の時間軸を比べるとその延長上で5世紀前半に実在したとされる第15代応神(オウジン)天皇から第21代雄略(ユウリャク)天皇などが想像される.これらの天皇が倭の五王ではないか,という議論もある[12],[13].しかし,日本の歴史ではこの時代は古墳時代で,伝承の時代とされる.物証となる古墳遺跡は身近にある.古事記や日本書紀の記載内容が実証されることで,この想像が確認出来る.1600年の時空間を超えて中国,朝鮮そして日本の関係を見ることで,現在の東アジアを見直してみると,新しい未来が見えてくるのではないか.その一面で, 王儇が描いた戦のない平和な世界は,築山殿(徳川家康の正室で,ドラマでは瀬名の名称が使われる日本3大悪女の1人)に引き継がれ,未だに実現していないという現実との矛盾を考えさせられる.そんな複雑な思いをこのドラマは抱かせてくれた.

(注1)章子怡(チャン・ツィイー,チャン・ツーイー)は,1979年生まれの中国人女優.
2000年に「グリーン・デスティニー」でアカデミー外国語映画賞を受賞した.2001年にジャッキー・チェンやクリス・タッカーと共演した「ラッシュアワー2」でハリウッドデビューを果たした. 2005年に鈴木清順(スズキ セイジュン)監督の「オペレッタ狸御殿」で日本映画でも主演を果たし,アジア以外の国々でも広く知られるようになり,国際的な知名度を得るようになる[1].
(注2)寐語者の小説「帝王業」が元になっているとされる[2].この小説は,百花洲文藝出版社から中国語(簡体字)で2017年に出版されている.
(注3)劉 裕(リュウ ユウ)は,南朝宋(420-479年)の初代皇帝である.中国には宋という名の王朝が複数あるため,他の宋王朝と区別する目的で,劉裕の建てた宋は後世の史家により「劉宋」と称されている[3].
(注4)ドラマでは,王儇(上陽郡主で後の豫章王妃,幼名は阿嫵(アブ))は, 父は宰相の王藺(オウ リン),母は皇帝の妹の馬瑾若(バ シジャク)という設定になっている. しかし,劉裕の皇后であった臧 愛親は, 東晋の役人である臧 俊(ゾウ シュン)の娘であるため,ドラマの設定である名門出身者でない.一方,彼女の孫に当たる王 憲嫄(オウ ケンゲン)という女性は,父親が南朝宋(劉宋)第4代皇帝孝武帝(劉 駿(リュウ シュン):453-464年)の時代の丞相,母親は劉 荣男(リュウ エイダン)という人物で, 初代皇帝劉裕の次女で第3代文帝(劉義隆:424-453年)の妹に当たる.また, 王憲嫄が結婚したのは文帝の第三皇子で,後の第4代孝武帝である.ドラマに登場する大成の第三皇子,馬 子澹(バ シタン)は,兄である先帝馬 子隆(バ シリュウ)を殺害し,蕭綦に濡れ衣を着せ,皇帝になる筋書きは, 王憲嫄と孝武帝の史実とは異なる. 王儇は, 臧 愛親と王 憲嫄の2人の女性から創り出された想像上の人物になるのではないか[4].
(注5)司馬 睿(シバ エイ:276-322)は,西晋(265-316年)の王族の一人であったが,八王の乱(291-306年)を避けて山東に移った. 311年の永嘉(エイカ)の乱(307-312年)で西晋の都,洛陽が匈奴の劉聡(リュウソウ:漢第3代皇帝:310-318年在位)に奪われ,さらに316年,劉曜(リュウヨウ: 前趙初代皇帝318-329年在位)によって長安が陥落し,西晋最後の皇帝愍帝(ビンテイ)が拉致されたことで西晋は滅亡する. 司馬 睿は,317年に晋王として晋王朝を復興した.ついで,318年に皇帝に即位し,東晋初代皇帝となった.正式な王朝名は晋であるが,西晋と区別するために東晋と言っている[5].
(注6)秦(紀元前905-紀元前206年)の将軍王離(オウリ)の長子の王元(オウゲン)の末裔といわれる王吉(オウキツ)を祖とし,琅邪郡臨沂県(ロウヤグン リンギケン)を発祥の地としている[6].
(注7)五胡とは匈奴,鮮卑,羯,氐,羌の5つの民族である.また,これらの民族は,匈奴は前趙,夏,北涼を,鮮卑は前燕,後燕,南燕,南涼,西秦を,羯は後趙を,氐は成漢,前秦,後涼を,羌は後秦を,漢族は前涼,冉魏,西涼,北燕をそれぞれの国として建てた[7].
(注8)建業(ケンギョウ)は呉の孫権によって建設された呉の都で,その後,東晋の都となり, 西晋の第6代,最後の皇帝の愍帝(ビンテイ:司馬鄴:シバ ギョウ)の諱(イミナ)に触れることから建康(ケンコウ)と改称された.その後の南朝諸王朝の都となるが,現在の南京であり,江南の中心都市である[8].
(注9)元弘の乱(1331-1333年)で鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇が親政を開始したことにより成立した,建武の中興が崩壊したことを受けて,足利尊氏が京都で新たに光明天皇(北朝・持明院統)を擁立したのに対抗して,京都を脱出した後醍醐天皇(南朝・大覚寺統)が吉野行宮(ヨシノノアングウ)にうつった1337(1333年という説もある)年から,南朝第4代の後亀山天皇が,北朝第6代の後小松天皇に譲位する形で両朝が合一した1392年までの期間を言う[10].
(注10)中国史料にその名が伝えられた5世紀の5人の倭国王. 讃(サン)・珍(チン)・済(セイ)・興(コウ)・武(ブ),あるいは, 賛・彌・済・興・武と表記されるが, 讃と賛および, 珍と彌は同一と考えられる[12],[13].
(注11)親魏倭王とは,魏の皇帝・曹叡から邪馬台国の女王卑弥呼に対して,238年に与えられたとされる封号のこと.三国志の東夷伝倭人条(魏志倭人伝)に記述されている[14].

参考文献・資料
[1] フリー百科事典(ウィキペディア(Wikipedia)),章子怡, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%A0%E5%AD%90%E6%80%A1 ,2023.6.25アクセス
[2] ふーみーブログ,中国ドラマ『上陽賦〜運命の王妃〜』のキャストと実在モデル紹介!時代背景は南北王朝, https://asiaentamemuchujin.com/chinese-drama/monarch-industry-the-rebel-princess-cast-model/ ,2023.6.25アクセス
[3] フリー百科事典(ウィキペディア(Wikipedia)), 劉 裕, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E8%A3%95 ,2023.6.25アクセス
[4] Fumiya,上陽賦:王儇(おうけん)は実在するの?モデルは? アジアンドラマの史
実, https://korea.sseikatsu.net/oukennmodel/ ,2023.6.25アクセス
[5]教材工房,司馬睿-世界史用語解説 授業と学習のヒント-, https://www.y-history.net/appendix/wh0301-027_2.html ,2023.6.25アクセス 
[6] フリー百科事典(ウィキペディア(Wikipedia)),王氏, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%B0%8F , 2023.6.22アクセス
[7]教材工房,五胡十六国-世界史の窓, https://www.y-history.net/appendix/wh0301-029.html ,2023.6.26アクセス 
[8]教材工房,建業/建康-世界史の窓, https://www.y-history.net/appendix/wh0301-018_1.html , 2023.6.26アクセス
[9]フリー百科事典(ウィキペディア(Wikipedia)),南北朝時代 (中国) ,  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD) ,2023.6.26アクセス
[10]フリー百科事典(ウィキペディア(Wikipedia)),南北朝時代 (日本), https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC) ,2023.6.26アクセス
[11] navicon,「上陽賦-運命の王妃」押さえておくべき5人(王儇,蕭綦,馬子澹,馬子隆,賀蘭箴)と出演者紹介, https://navicon.jp/news/75601/ ,2023.6.27アクセス
[12] NetAdvance,倭の五王-日本大百科全書(ニッポニカ)-,  https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=2078 , 2023.6.27アクセス
[13] DIGITALIOC-POT,倭の五王,日本大百科全書(ニッポニカ) 「倭の五王」の意味・わか
りやすい解説,コトバンク, https://kotobank.jp/word/%E5%80%AD%E3%81%AE%E4%BA%94%E7%8E%8B-154280#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8 ,2023.6.27アクセス
[14] フリー百科事典(ウィキペディア(Wikipedia)),親魏倭王, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E9%AD%8F%E5%80%AD%E7%8E%8B  ,2023.6.27アクセス
[15] 石井和克, 太王四神記から見た朝鮮神話のファンタジー性について,コラム KAZU'S VIEW2023年5月, https://ishii-kazu.com/column.cgi?id=238 ,2023.6.28アクセス
 令和5年6月
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