コラム KAZU'S VIEW

2005年08月

イタリアの北と南

7月28日~8月5日にイタリアのミラノとサルレノを訪れた。イタリアは3回目であった。最初は1981年の8月で今は亡き、ユーゴスラビアのノビサドで第6回International Conference on Production Research(ICPR)に出席した帰りにギリシャを経由してローマ、ソレント、ナポリ、ベスビオスとポンペイを廻った時だった。2回目は2002年9月にInternational Workshop ISPIM2002がローマであった時になる。それまで北イタリアに行く機会がなかったが、今回初めて北イタリアのミラノを訪れることができた。7月の終わりだったが、ミラノは数百年ぶりの猛暑で、暑さのために死者が出るほどだ、とうかがった。確かに、ホテルのエアコンがうるさい割に冷えないことに寝苦しい夜を経験した。しかし、そのおかげで夜遅くまで町を歩くことができ、Sforzesco城やDuomoなどの夜景を楽しむ機会を得た。ピザパイとイタリアワインを野外テーブルに置き、通りの雑踏と行き交う人々を眺めながら30年以上前の日本の夏の夕涼みというセピア色のシーンに、時の緩やかな流れと人の温か味が懐かしく思い出された。"Milano"の語源は古代ローマ時代に「ロンバルディア大平原のまん中」と呼ばれていたことに由来するらしい。この地を訪れた目的はミラノの「ものづくり」について調べたかったからであった。中小企業でありながら、世界一の靴底作りメーカーやパスタ製造機、ストッキング縫製機などのメーカーが元気に活躍していると聞いていた。また、日本で最大規模のコンサルタント会社がヨーロッパに最初に進出した場所でもあり、日本の改善コンサルテーションがヨーロッパでどのように受け入れられ、また、その最初の地がどうしてミラノだったのかに関心を持っていた。2002年に訪問予定したが実現しなかった経緯があった。今回も直接ものづくりの現場を見ることはできなかったが、Duomo建設に600年をかけたり、靴底1つにこだわるものづくりを尊重しつつ、全体的な価値創造に結びつけるミラノコレクションのようなブランドづくりには共通性が見える。自らが良い物を求め、突き詰め、また、これを楽しむことを価値として認識し、これらを取りまとめるコーデイネータ的匠の存在である。訪問した日本のコンサル会社の社長さんも、ものづくりに対する考え方は日本人とかなり近いものがあり、アメリカ流の経営面からの改善コンサルよりも日本的ものづくりである現場中心の改善コンサルが受け入れられやすい土壌にあることを指摘されていたことが印象的であった。次回、ミラノ訪問ではこの仮説をものづくり現場を実際に見ることで検証することを楽しみに、ミラノを後にした。

ミラノを立ってサレルノ(Salerno)に入り、その雰囲気の違いに気づいた。Milanoが大平原の真ん中に位置するのに対し、Salernoの町は海に突き出た絶壁に石造りの町並みがその自然に溶け込んでおり、その景観がとても印象的であった。第18回ICPRの会場はサルレノ大学であったが、この大学は医学部が有名だと聞いた。サレルノは地中海を渡ってイスラム文化が船で伝わったところで、その文化の1つが医学であったという。サルレノのから船で1時間弱行くと「青の洞窟」があるカプリ島がある。また、近くにはフィアットの工場がある。この工場に見学に行った時、この工場で日本人コンサルが指導していることをガイドしてくれたイタリア人のエンジニアから聞いて少々驚いた。そこで見たのはそのコンサルの指導で作くられた部品出し入れ口が45度傾いた棚だった。この発想は最近、松下電器が開発した斜め洗濯槽の洗濯機にも人間工学的な意味で製品アイデアとして生かされていることを紹介したら、同じ見学グループにいた日本人の方が少し感動した様子だったので少し複雑な気持ちになった。フィアットのライバルはどこか、と聞いたら、BMWだと答えた。日本車のものづくりを学んでトイツ車に対抗する姿勢はフィアットの工場から見た山頂がなだらかな一山型のベスビオス火山の姿と、工場からサレルノに帰る車から見た二つ山のそそり立つ姿のベスビオス火山の違いに重なった。25年前、最初にイタリアに来たときに聞いた北イタリアの人の「南イタリアの人達は祖先のすね(古代ローマ時代の遺産)をかじっているだけで、今のイタリアは我々北イタリアがその経済を支えている。」という話を思い出し、ものづくり、価値づくりの姿の北と南の違いは同じベスビオスという山をどちら側から見るかの違いのような気がした。

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