コラム KAZU'S VIEW

2024年04月

薯童謠(ソドンヨ)で感じたこと―個人と国家の幸せの融合―


  韓国TVドラマ「薯童謠(ソドンヨ)-SONG OF THE PRINCE-」の再放送を見終えた.以前(2006(平成18)〜2008年までに3回衛星放送チャネルで放映された)にも見た物語であるが,改めて見直すことで多くの共感を得た.韓国時代劇には多くの興味ある作品がある.このコラムでもいくつか取り上げてきた.このドラマは,朝鮮の三国時代(百済,新羅,高句麗)を背景に,百済第30代武(ムアン;在位600〜641年)王[1]とその妃である新羅第26代真平(チンピョン;在位:579〜632年)王の第3女のソンファ姫(善花公主:ゼンカ コウシュ)のラブ・ロマンスを中心に,百済と新羅の政治的策略を材料にストーリーが組み立てられている.当時の国際関係の背景としては,朝鮮の3国と中国王朝の隋(581〜618年)や唐(618〜907年),そして日本の飛鳥時代(593〜710年)という東アジア情勢も下敷きにしている. 薯童説話(ショウドセツワ/ソドンセツワ)[2]を基にした作品になっている. 脚本キム・ヨンヒョン,監督イ・ビョンフンというかつて,「宮廷女官チャングムの誓い」[3],[4]でタッグを組んだスタッフが制作した韓国SBS(Seoul Broadcasting System)のTV番組である.このドラマの中に出てくる「大学舎(テハクシャ)」という存在とその組織としての博士と技術士の内容が大変興味深いものであった.当時のイノベーションのメッカとしての百済と,これを国内外の政治的戦略として駆使する様子が,現在の東アジアの地政学的課題にも重なるのではないか,と思いを馳せた.

 武王(璋:チャン)と善花公主(ソンファ)の恋愛物語は, 薯童説話に出てくるエピソードで,ドラマのストーリーとしては,チャンが子供の頃に芋売り,すなわち薯童(ソドン)として生活していたことがその名称の由来となっている.政変により百済を追われた先端技術者集団の大学舎の人々は,モンナス(モッラス)博士を中心に新羅へ逃れ, 天の峠学舎(ハヌルチェ)での逃亡生活を送る.母親ヨンガモの命により,彼女のかつての恋人であった大学舎の最高技術士のモンナス博士に師事していたチャンも行動を共にした.新羅に移った大学舎の人々は,その技術を基に,織物や器などの「物作り」を行い,生計をたてていたが,その中でチャンは新羅宮への納品の際にソンファ姫に出会い,心を奪われる.その後,チャンはソンファの関心を引くために「薯童謡(ソドンヨ)」という,「はやり歌」を自作し,新羅の子ども達に歌わせて噂を広げさせる.その謡の内容は,「ソンファは夜になるとこっそりソドン(チャン)の部屋を行き来している」とういものである.正に,プロパガンダの先駆者的存在としてチャンを認識する場面である.この手法は後に,チャンの母親,父親(百済第27代威徳(ウィドク;在位554〜598年)王)および兄の阿佐太子(アジャテジャ)の敵であると共に,従兄でもあった政敵, 百済第29代法王(ホウオウ:プヨ・ソン;在位599〜600年)に対する政略として利用され,自らが百済王へと進む上の有力な武器となる.しかし, 薯童謡が新羅市中からやがて新羅宮へと伝わり, ソンファの父親である真平王の耳に入ると,ソンファは新羅宮から放逐される.しかし,彼女は百済に移り住み,隋の商人としてチャンとの出会いの機会をうかがう.平民と王女,敵国同士の人間の愛の行方は,チャンが百済の王子であり, 武康太子として王位継承者となる中で, 2人の共通の目標となる「理想国家の構築」へと向かうことになる.その理想の国とは,身分や生まれた場所に関係無く,より良く生きるための能力を発揮し,自らの夢の実現に挑戦できる国である.この理想の国は,二人が歩んできた苦難の道のりから獲得した民の国,今で言う「民主国家」に通じる.ここに至る過程で,技術者集団としての大学舎の環境が,チャンの人間形成に大きく影響してきているように思う.しかし,百済は武王の子供の第31代義慈王(ギジオウ;在位641〜660年)が,最後の王となる.武王の孫に当たる豊璋(ホウショウ;扶余 豊璋)らの王族や遺臣たちは,倭国(日本)の支援を受けて百済復興運動を起こし,663年の白村江(ハクスキエ)の戦いに望むが,唐と新羅の連合軍に破れ,百済は新羅に併合される.その後,この夢はソンファの姉である新羅第27代善徳女王(ソンドク ジョオウ;在位632〜647年:注1)の「三韓一統」へと受継がれ, 668年の高句麗滅亡,更に, 唐軍を676年に駆逐して朝鮮半島を統一したことで実現する.

 高度な百済技術の組織的伝承とその価値を国際的なブランドとして,外交に用いるという阿佐太子(チャンの異母兄)の政策と,その対極としてのプヨ・ソン(法王)の軍事力による国際戦略の対称性が,今日の国際政治を眺める上で大変興味深い.この百済技術の集積,開発の場である大学舎という組織が,このドラマの特徴的な場となっている.この場を通じて,チャンは「技術を社会にどのように応用するか」,「技術は社会に対しどうあるべきか」,という課題に取り組む. 阿佐太子が,倭国(現在の日本)の聖徳太子からの依頼で,片刃の刀の製造に取り組む(注2).それまでの刀は,両刃であったが,折れ易いと言う欠点があった.そこで,切れやすく折れにくい刀の開発と言う課題に取り組む.片刃を切れやすい堅い金属で,その裏側(裏刃)に柔らかい金属を組み込むことで解決しようというアイデアに基づき,苦悩するチャン達の姿は,NHKで再び放映される「新プロジェクトX〜挑戦者たち〜」[8]を彷彿とさせる.この当たりの場面には,鉄素材の吟味や溶解プロセスの場面などが描かれ,技術的視点でも心憎い演出になっている.父親とは知らず, 威徳(ウィドク)王の病気治療用に当時,高句麗で使われていたオンドル(薪を使った温熱床面暖房設備)を試作し,治癒させたエピソードや,そのオンドルを新羅の親孝行息子の願いで作ったことを,師匠のモンナス博士から技術流失として叱責され時,「技術は国のためにあるのでなく,人の幸せのためにある」と反論する場面では,技術者倫理の基本を教えられた.また,新羅と百済の国境付近で,農地が酸性土のため,農作物ができない土地を与えられた事に端は発した紛争を,石灰を混ぜて土壌中和をして農地改良をおこなうことで問題解決するなど,武力的解決ではなく技術開発による問題解決を図る様々な実験を行う下りには,技術者として「もの作り」に取り組む姿勢と使命感を学ぶ機会を提供している.チャンが,武康太子から王位に就いて「国作り」を始める際に,貴族勢力から武力や財力を国に集権化するための政策として大学舎に均田制(注5)を検討させる場面は,社会制度設計(国作り)に科学技術を応用する姿勢を垣間見た気がした.これと似たような思いは,2009年に中国上海を訪れた際に感じた以下の議論の時に持ったものと共通していた.それは,当時の中国が最も重点を置く科学技術分野は, 脳科学,ITそして社会システムの3分野であり,特に社会ステムについては,中国の政治体制は共産党一党支配の下での共産主義でありながら,競争市場を基本とする自由経済体制を採るという人類史上経験のない実験を行っていることが背景にあるということ.従って,このような国家的実験を進めるためには社会システムのための科学技術を創出していく必要がある,と言うものであった[13].

  このドラマの最初に出てくる予言的な言葉, 「過ちから生まれた者 自ら香をたき 香をたいた者は王になる 王は再び百済を興し 大きな栄光をつかむ」が,このドラマのストーリーを物語る.チャンの母親のヨンガモが,結婚を約束したモンナス博士がいるにも関わらず, 威徳王の子供(王子)を身ごもり,その子の将来を元カレのモンナスに育てさせるという下りは,唐突な感じを受ける.しかし,この唐突さが「香をたく」の意味とも解釈できる.チャンとソンファの道行きの困難さが2人の絆を強めるという論理は,人は苦労の末にそれぞれの香を醸し出すという人間形成のアナロジーではないか. チャンとソンファの国づくりの夢は,ソンファの姉の善徳女王の「三韓一統」から真徳女王に引き継がれ,武王(チャン)没後35年を経て,新羅による朝鮮半島統一が達成される.しかし,その統一新羅も第51代真聖女王(シンセイジョオウ;在位887〜897年)の代に分裂状態(後三国時代)を来たし,高麗(936〜1392年)へと統一王朝が代わって行く.そして現在は,大韓民国(南朝鮮)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の2つに分かれている.朝鮮が再び1つの香となるための科学技術をチャンならどのように描くのか,聞いて見たい思いに駆られた.

(注1)新羅第27代善徳女王は,善花公主の長姉で朝鮮の最初の女王である[5],[6].善徳女王は「三韓一統」を旗印に朝鮮半島の統一を願う.その意思は,第28代真徳女王(チンドクジョウオウ,在位; 647〜654年,善徳女王の妹あるいは従姉妹とされている),第29代武烈王(ムヨルワン,幼名をチュンチュ,善徳女王の双子の姉妹の姉に当たる天明(チョンミョン)王女の息子)を経て,第30代文武王(ブンブオウ;在位626〜681年)の時,668年に唐との連合軍で高句麗を滅し,その後, 676年に唐軍を朝鮮半島より追い出すことで実現する.
(注2)このドラマに登場する聖徳太子(在位:593〜622年)は, 威徳(ウィドク)王の長男でチャンとは異母兄弟の阿佐太子(アジャテジャ/アサタイシ:注3)が,後継者争いの政略から当時の倭国に派遣させられた際の受け入れ先としての役回りになっている.聖徳太子と言えば,「冠位十二階(603年)」,「十七条憲法(604年)」,「遣隋使(607〜14年)」,「仏教興隆(611〜15年;注4)」などのキーワードが出てくるが,その知名度は,日本銀行券(お札)の肖像画として何度も登場したことが最も影響力を持ったと考えられる.聖徳太子は2度,新羅に遠征軍を派遣することを計画したらしい.最初は,600年で次が602年であったが,2回目の出兵は, 同母弟の指揮官が派遣準備中に死去し,中止となった[7].この6〜7世紀の東アジアの地政学的状況は非常に興味深い.中華では,隋(581〜618年)から唐(618〜907年)へと王朝が変わり,朝鮮では4〜7世紀の三国(高句麗・新羅・百済)時代である.日本は飛鳥・奈良時代になる.聖徳太子の新羅派兵は,天皇中心の中央集権国家形成のための軍事力強化戦略の一環であるという指摘もある[7].蘇我氏と物部氏の権力争いの中で,蘇我氏が権力を手中に収め,蘇我馬子(ソガ ノ ウマコ)の権勢のもとに,日本最初の女帝である第33代推古天皇(スイコテンノウ: 在位593〜628年)の擁立により,摂政となった聖徳太子のおかれた国際情勢は,当時の後進国であった倭国が,先進国である隋・唐および高句麗・新羅・百済からの圧力にどのように対処すべきか,という難題に取り組まざるを得ない状況を察するに余りある. 阿佐太子と聖徳太子という2人の太子の置かれた状況から,太子という立場の難しさを教えられたような気がする.
(注3)阿佐太子は,日本書紀によれば,推古天皇5年(597年)に日本に渡って聖徳太子の肖像画を描いたと伝えられる百済の王族出身の画家とされる.彼が制作したと言われる「聖徳太子二王子像」の絵は,日本で一番古い肖像画とされている.この絵は奈良の法隆寺に伝来し,明治以降は御物(ギョブツ)となっているが,その制作者については諸説がある[9].また,この絵には, 「唐本御影(トウホンミエイ 」や「阿佐太子(アサタイシ)御影」などの異名があるとされる[10].
(注4)聖徳太子(厩戸皇子(ウマヤドノオウジ/ミコ))は仏教を厚く信仰し,勝鬘経義疏(611年),維摩経義疏(613年),法華義疏(615年)の「三経義疏(サンギョウギショ)」を著した.これらは,それぞれ「法華経」,「勝鬘経」,「維摩経」の三経の注釈書とされる.聖徳太子の仏教の政策的導入意図は,それまでの日本にあった八百万の神信仰に対する新たな宗教観と共にその当時の社会制度としての「優勢な豪族(蘇我氏や物部氏など)対弱小皇室の図式」を一変させるための道具として体系的・先進的宗教文化を利用しようとしたのではないか[11].そして,新たな価値観として「和(ヤワラギ)をもって貴(トウト)しとなし」,「篤く(アツク)三宝を敬へ(篤敬三宝)」の2つを十七条憲法の第1,2条として挙げている.なお,三宝とは,仏,法,そして僧を意味する.僧は仏の教えを人々に伝え,法理を理解させる役目を担う人を意味する.
(注5)中国,北魏の485年に始まり,北斉・北周を経て隋及び唐で整備され,租庸調制,府兵制とともに律令制国家の基幹となる土地制度であった.農民に土地を等しく与えることによって生活を安定させ,同時に租庸調などの税と府兵制での兵役を農民に負担させて国家の財政と軍備を維持しようとすることがねらいであった.均田制・租庸調制・府兵制は,律令制度国家を支える三本の柱であると言える.日本の班田収受法(注6)のモデルとなるなど,周辺諸国にも影響を与えた.唐の末期,8世紀ごろから次第に行われなくなり,土地私有が広がって荘園制に移行する[12].
(注6)日本の律令制度では戸籍が6年ごとにつくられるので,6年ごと(班年)に戸を単位として口分田(クブンデン)が分け与えられる「班田収受法(ハンデンシュウジュホウ)」と呼ばれる制度が採用された, 「口分田」とは,唐の均田制で還授される畑地のこと.還授とはその人一代だけに与えられ,死ねば返還しなければならない [12].

参考文献・資料
[1] フリー百科事典(ウィキペディア(Wikipedia)), 武王 (百済), https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%8E%8B_(%E7%99%BE%E6%B8%88) , 2024.4.4アクセス
[2] フリー百科事典(ウィキペディア(Wikipedia)), 薯童説話,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AF%E7%AB%A5%E8%AA%AC%E8%A9%B1  ,2024.4.4アクセス
[3] 石井和克, 大長今(テ・ジャングム)私観KAZU'S VIEW 2005年9月, https://ishii-kazu.com/column.cgi?id=25 ,2024.4.4アクセス
[4] 石井和克,チャングム私観Part 2-知識時代の教訓- KAZU'S VIEW 2005年11月. https://ishii-kazu.com/column.cgi?id=27 ,2024.4.4アクセス
[5] フリー百科事典(ウィキペディア(Wikipedia)), 善徳女王,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E5%BE%B3%E5%A5%B3%E7%8E%8B  ,2024.4.4アクセス
[6] 石井和克,平城京遷都から1300年の歴史に見る日本国のルーツKAZU'S VIEW 2010年11月, https://ishii-kazu.com/column.cgi?id=87 ,2024.4.4アクセス
[7]フリー百科事典(ウィキペディア(Wikipedia)), 聖徳太子, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90   ,2024.4.28アクセス
[8] NHK,新プロジェクイトX〜挑戦者たち〜この国には,誰にも知られず輝く人々がいる, https://www.nhk.jp/p/ts/P1124VMJ6R/ ,2024.4.28アクセス
[9] フリー百科事典(ウィキペディア(Wikipedia)), 阿佐太子, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E4%BD%90%E5%A4%AA%E5%AD%90  , 2024.4.28アクセス
[10] 丸山淳一, 謎だらけの肖像画「聖徳太子二王子像」が信仰のシンボルとなるまで, 2021/05/05,読売新聞オンライン,webコラム「につながる日本史」
https://www.yomiuri.co.jp/column/japanesehistory/20210427-OYT8T50054/  , 2024.2.28アクセス
[11] 牛 黎濤,日本仏教文化の特徴と変遷の軌跡,佛教文化学会紀要,第23号,平成26年11月号,pp.235-251,
https://www.jstage.jst.go.jp/article/bukkyobunka/2014/23/2014_L235/_pdf/-char/ja , 2024.4.28アクセス
[12] 教材工房,均田制,世界史用語解説 授業と学習のヒント, https://www.y-history.net/appendix/wh0301-041.html , 2024.4.28アクセス
[13] 石井和克,上海は40年前の日本の勢いと先端技術の混在する不思議な空間だったKAZU'S VIEW 2009年8月, https://ishii-kazu.com/column.cgi?id=72 ,2024.4.28アクセス

令和6年4月
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