コラム KAZU'S VIEW

2004年02月

超高齢社会は時間の物的価値から心的価値へのスイングが必要

1970年代に生まれた日本のコンビニは世界の各地で見られるようになった。正に、「便利」の価値は世界的価値になったのか?

1987年8月に英国南部のリゾート地Brightonで新製品開発管理に関する第5回ISPIM会議があった。同席したオランダに本社のある多国籍企業フィリップスの品質管理部部長と朝食を取りながらの話題に日本製品が上がった。 彼が手にしていた新聞の広告の内容が発端であった。その広告は日本のM社が新発売した電気ベーカリー器の大見出しであった。この製品は多分、日本で電気釜が大ヒットしたことを受けて、パン版の電気釜を狙ったものではないかと推測した。 日本人はどうしてこのようなものを我々に売るのか?とい質問が最初だった。私が、君のワイフも朝早く起きてパン屋さんに行かなくて済むし、いつも美味しい焼きたてパンが食べられ、ファミリーもハッピーではないか。 便利で良い商品ではないか、と答えると、彼は怪訝な顔をして、どうして「便利」は良いのか。我々は昔からパンを朝主婦が町や村のお決まりのパン屋さんで買うという習慣を創ってきた。この習慣の中に朝のパン屋さんでの主婦の会話があり、これがコミュニテイのコミュニケーションチャネルとして重要な機能を果たしてきた。 その時「情報」の情は「こころ」と読むことを教えて頂いた。現在の情報化社会は乾いており、心が干上がっている。今こそ、適度の湿り気を心(情)に満たす必要があろう。その意味で情報は「こころをつたえる」、「こころに報いる」本来の姿に回帰すべきとの主張に聞こえた。情報化社会から情報社会(ユビキタス社会)へのリーダーシップを取れる可能性のある地域として北陸を上げているのではないか。物的価値、経済的価値に行き詰まった世界の期待は日本的心(情)的価値にある。その日本の心の故郷の1つとして石川ブランドを父さんと母さんが楽しんで創れるものにしてはどうか。これが実現できれば石川県民110万人余りがその伝道者として日本中、いや、世界中でセールスマンとして自然に振る舞えることだろう。 この文化、伝統を「便利」というだけで否定されるのは納得がいかない、ということが主旨だったようである。 1989年9月に西ドイツの西Berlinで第6回ISPIMがあった。そこで、「良い車とは?」という議論をドイツ人としていた。彼は、ドイツ人が一生に一度で良いから乗ってみたい車はベンツかポルシェのNew Modelである。お金がなければ日本車で我慢する。 また、最近日本の自動車メーカーがこちらに進出してきているが、世界一の自動車を構成している世界一の部品を買わないのはアンフェアではないかと言っていた。その後、この会話にアメリカの友人が加わった。アメリカでは最近フリーウェイで渋滞が生じ、交通事故による死傷者が増加しだした。その事故車の大半はベンツかポルシェである。 君たちドイツ人は我々に高い値段で人を殺傷する商品を売っているのではないか、という発言だった。その会議の帰路、商社勤務でフランクフルトに在住中の友人を訪ねた。彼の好意でライン河畔を1日ドライブに連れて行ってもらった。彼は中古のベンツに乗っていた。 時速140Km位でアウトバーンを走っていたが、かなりエンジン音が大きく前後席での会話にしばしば困難を感じた。片側3車線の車の流れを見ていると、早さによって、一番遅い車線が大型トラック、バスで平均時速100Km位、中間が平均時速140Km位、一番早いのが160Km位であった。友人の車をあっという間に追い越して聞く車がベンツ、ポルシェのNew Modelであることを実感した時、ベルリンでの会話の意味が判ったような気がした。 1985年8月Stuttgart近郊にあるベンツの工場を見学した際に、購入者は注文してから2年位は納車を待つのが通例であり、良いものを作るには時間がかかって当然である。購入者は納車時期の連絡を受けると、自分で工場に行き、まず工場見学をし、自分の車を作った作業者、設備、材料等を見て、ロビーで珈琲を飲み、自分で運転して帰ると言うことを聞いた。

「便利」を時間の効率価値、すなわち、一定の経済価値を得るために費やす時間を最小化する価値とする所に上記の問題が生じるのではないか。便利さを時間の効率価値と時間そのものを価値とする時間価値、すなわち、「時間そのものを楽しむ」価値について日本人は考え、時間価値創造を追求する必要がないか。 これは、飛躍的に寿命が伸び、超高齢社会(65歳以上の人口比率が25%を超える社会)の到来を間近にした我が国が直面する問題であり、時間価値の物的価値から心的価値へのスイングになろう。

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