コラム KAZU'S VIEW

2011年10月

10年ぶりの北京は中国らしさを感じない町になっていた

10月14日から16日まで北京にAPIEMS2011と第15回IFPR-APRのミーテイング出席のため出かけた。会場は北京のBeijing Friendship Hotelで主催はTsinghua University, Beijing, China(精華大学)であった。通常、この会議は12月に開催されるのが恒例であったが、主催組織の都合で変則的な開催であった。併せて、東日本大震災の影響で日本からの出席者も少なく、全体で300名弱程度と何時になく少なかった。しかし、私の研究室の学生を含め5名が本学から参加し、本学で開催した1999年の第2回APIEMSの時以来、本学からの参加者数は最大数であった。大学の講義の関係でどうしても16日、日曜日の夜までには金沢に戻る必要があり、単独行動の強行軍の日程であった。行きは羽田経由で、帰りは関空経由であった。Beijing Friendship Hotelにチェックインする際に、多少のトラブルはあったものの、なんとか北京での第一夜を過ごすことができた。翌日は早朝から開会式があり、会場を探すのに苦労した。このホテルはコンベンションセンターの機能を有し、敷地内に多数の建物があった。いくつかの国際会議がホテル内で開かれていたため、なかなか会場に行き着かず、開始ぎりぎりで会場に到着した。その日は、開会式後に理事会とIFPR-APRの会議があり、その後、夕食会があった。その夕食会で「紅星」という蒸留酒(白酒)が出た。アルコール度数が60度近いもので、容器は鮮やかな朱色でグラマラスな形状をしているが、中のお酒は透明で結構料理に合った味であった。主催者の教授が現在北京で最もはやっているお酒であるとわざわざ席まで伝えに来た。翌日の昼には帰国予定であったので、気ぜわしい北京滞在であった。 今回の北京訪問は3回目であった。最初は2000年8月でInformation Technology for Business Managementでの発表、2回目は2002年5月Int'l Conf. on e-Business2002であった。この時の思い出は2009年8月のコラムで触れた。それから丁度、10年ぶりになる北京であった。2008年の北京オリンピックがあって、様変わりが激しかった。到着した北京首都国際空港は世界第三位の規模、アジアでは最大級の空港らしい。空港の建屋の見た目からは中国らしさは全く感じられなかった。ただその大空間に圧倒されたという印象だけが強く残っている。タクシーでホテルに向かう道すがらは高速道路、高層ビル群のみが目に入って来た。会場となったBeijing Friendship Hotelは北京市内でもサイエンスパークの中関村(Zhong Guan Cun High-Tech Zone)に位置しており、近くには大会主催校の精華大学や北京大学がある。また、 中関村サイエンスパークは中国初の国家ハイテク産業開発区として大きな成功を収めて国内外からの注目を集めており、中国のシリコンバレーとも称されている。説明によると、世界の一流パークを目指し、電子情報、バイオ製薬、新エネルギー、フォトエレクトロニクス、新素材、環境保護等の分野に取組んでおり、10のサブパーク(大興バイオ医薬産業基地を含む)で構成され、国家ソフトウェア産業(輸出)基地、国家バイオ医薬産業基地、国家工程技術イノベーション基地、国家ネットワークアニメ産業発展基地としても認定されている。また、国家支援のインキュベータも多数設けられている。このような国家ハイテク産業開発区は1991年から認定され始めた。その背景には「火炬(タイマツ)計画」という中国がハイテク産業を発展させるための国家戦略的計画がある。この計画は1988年8月に国務院が認可し、科学技術部が実施したとされる。その計画はハイテク産業技術開発計画にある863計画をさらに一歩進め、技術開発成果の産業化、製品化、国際化を促すことを目標とし、第11次五カ年計画として策定された。その最初の特別地区が中関村サイエンスパークであったらしい。しかし、箱物だけでは成果が出ないことを日本人はここ20年間いやとういうほど見せつけられてきた。その結果、日本ではやっと人財育成が大切であることに気がつき、教育改革なるブームを呼んでいる。ブームでなく、真の人財育成に取り組んで欲しいところである。しかし、タイマツ計画による中国はこの点が違う。この中国近代化の基礎は鄧小平が作ったとされる。彼の人生は正に波乱万丈、起伏に富んだものであった。しかし、彼の先見性はここにあったのではないか。それは、中国の「海亀戦略」と言われるものである。海亀は満月の夜に百個程度の卵を砂浜に生み付ける。その時の母亀は涙を流すという。やがて、孵化した子亀は海に出て行く。砂浜から海に出るまでに様々な敵に出会い、その餌食にされるものも多数。その中で生き残った亀だけが大海に出て、世間の荒波に耐えて、更に生き残ったものだけが生まれ故郷の砂浜に帰ってくる。その例えになぞられた戦略だと思う。鄧小平は多くの中国人を海外留学させた。その留学生が功を成し、名を上げた時、どのような意思決定をするか。そのまま成功した留学先に残るか?その成果を持って母国に帰国するか?の二者択一に賭けた彼の思いが叶ったものが、中関村ではないか。インキュベーター(孵化器)の戦略もしっかり入っている。この孵化器を巣立った亀は第二の海亀戦略に繋がるのではなかと思われる。 2009年8月のコラムで記した技術系政治家の脅威は、ここ数年の日本の技術系政治家のお粗末に比べて、益々増大してきていることをひしひしと感じる。そんな思いをBeijing Friendship Hotelにある中国庭園を眺めながら、赤ワインの酔いの回った頭の中でここ10年の北京の大きな変化に何となく寂しさを感じた。

先頭へ