コラム KAZU'S VIEW

2011年11月

改めて考える日本人にとって原子力とは何か?

11月8、9日と1年ぶりに広島を訪れた。10月から私の研究室にタイから女子留学生が来ていて、その研究テーマが物流問題だったので、日本の物流企業の実態調査先を探していた。ちょうど大学のクラスメイトが社長をしている会社に物流サービス企業があったのでお願いして会社訪問させて頂くことになった。その会社が広島にあったこと、牡蠣の季節であったこと、日本酒の美味しい土地柄で友人も多くいたので久しぶりに顔を見たいこともあり、広島まで出かけた。 今年の3月に起きた東日本大震災に伴う福島原発事故は我々日本人に、日本人に取って原子力とは何か?の疑問を問いかけた。それまで原子力とは専門家の世界の問題であり、他人事としてしか考えていなかったが、この事故をきっかけに原子力を自分事として考える日本人が増えたであろう。そんな思いを抱きながら、学生の頃訪れたことのある平和祈念公園に行って広島平和記念資料館を留学生とともに見学した。館内は修学旅行の中学、高校生でごったがえしていたが、留学生に展示物を説明している内に自然に目頭が熱くなり、その自分の姿に戸惑いながら、以前来た時の印象と違うことに気づいた。その理由を考えてみた。 第一に年の影響があろう。以前おとずれたのは40年も前だった。何も知らず、ただ、鼻っ柱が強いだけの虚勢を張った年頃であったのだろう。その時の印象は、過去の歴史事象に対し「悲惨さ」、「悲しさ」、「憤り」といった感情的印象だったと記憶している。その方向性は人間に対してのものであり、このような残忍なことをするのは人間であり、その被害者も人間であるという思いであった。しかし、今回は40年間の経験と直前に起きた東日本大震災とその後の原発禍の影響という時間を共有しての実体験に基づく原子力に対する認識を持っている点が異なっていた。すなわち、福島原子力発電所の事故原因が地震とその後の津波という自然要因があったものの、原子力の平和利用の目的で生活を豊かに、快適にするという欲求充足の実現法として日本社会が原子力を受入れたという認識から人為的要因も考えられる。かつての原爆禍は世界恐慌という人的原因が第二次世界大戦を生みだし、その結果として生じたものという歴史認識と、今回の原発禍が我が国の戦後復興のための経済発展、生活の豊かさと快適さの実現法として採用したという人為的原因を見落としてはならないのではないか。突然、我々の生活そのものを脅かし、今後、我々の子孫にまで及ぶ長い期間に渡り自然に対する目に見えない放射能汚染という危害を与えたことを、我々自らが実体験しているという現状認識を日本人はどう受止め、次につなげるかである。戦争目的の殺戮(サツリク)兵器と平和目的の有望なエネルギー源としての原子力の両面性を我々日本人は人類史上初めて体験している。ある意味で、世界中で最も原子力に精通しているはずの民族が今回の体験で、如何に原子力について理解していなかったかを知らしめられたような気持ちがこみ上げて来た。確かに、現在の日本の経済力を支えているものの1つに膨大なエネルギー消費があることをほとんどの日本人は否定しないだろう。今、原子力発電を全て廃棄したら急激な経済力低下とその結果としての混乱、混迷、不便が予想される。我々はその経済的、物的欠乏に耐えられるだけの心の強靭さを持ち合わせているのだろうか。原爆禍を克服した広島、長崎の人々はどのように思うのだろうか。そのような思いが資料館の写真や遺品を見ながら心を駆け回った。 その後、11月11日から13日まで学会で盛岡に出かけた。駅前の会場はガラス張りでとても近代的な建物だった。その建物には図書館があり、学生達が勉学にいそしむ様子がとても平和な印象を与えていた。期間中、会議を抜け出し盛岡から2時間かけて宮古まで出かけた。3月からずっと心の奥底にあったモヤモヤ感をはらしたい一心で出かけてみた。とても天気の良い日であった。宮古について駅周辺を1時間ほど歩き回ったが、道路は新しく、家々も新しい物が多く、予想外の光景に、意外性の一面、ほっとした気持ちに駆られた。結局、宮古の被災状況を目の当りにできなかった。宮古への行きは山田線のデーゼル車で、帰りはバスであった。その行き帰りの車窓から見える山並みは紅葉に彩られ、とても美しい景観で3月に見たテレビニュースのシーンとは似ても似つかぬものであった。このギャップをどう埋めたら良いか少々不安を感じながら、再び訪れたいという思いに駆られた。広島平和記念資料館で前回来た時には無かった展示物がかなりあった。それは、原爆禍を挟んだ広島の生活であった。戦前の広島の歴史、町の風景や生活の様子、戦後の核兵器廃絶運動のビジョンや行動履歴など現在進行中の広島の行動の記録と将来像の展示であった。広島という場所でどのような時間が流れ、その1つが原爆であるという捉え方は、広島の人々が生活の1部として平和の大切さを世界へアピールしようというリーダーシップの力強さを示したものではないか。それが世界に対する日本価値であることを心から願うのみである。それではフクシマを我々はどのような世界価値へと高めていくか。その努力が東日本大震災の犠牲となった方々への生き残った我々の使命ではないか。

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